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中山道(2)

ページID:0003947 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

塩尻宿から日出塩まで

西福寺(地図<外部リンク>

西福寺の写真
西福寺

宝松山西福寺は、永禄8年武田信玄によって開基された曹洞宗の寺である。
洗馬長興寺の中興開山の祖、才応総芸禅師の弟子圭嶽珠白師の開山になる。
才応総芸禅師から譲られた袈裟は、「西福寺開山和尚の袈裟」として市有形文化財に指定されている。
森閑とした境内のたたずまいは、訪れるものに古刹の雰囲気を伝えている。

平出一里塚(地図<外部リンク>

平出一里塚の写真
平出一里塚

平出の一里塚は、原形に近いものであり、塚も2基残されている。これは県下でも珍しく、一時長野県の史跡天然記念物に指定されていた。その主文に「東筑摩郡宗賀村木曽街道に2個、道をはさんで相対す。その広さ1個1畝28歩高さ1丈許り、元平出区なりしも宗賀村有に移さんとす。中央線汽車中よりも望見することを得」とある。
馬子うた長持うたもひびくなる
 しばし心地のいちり塚かな

平出遺跡(地図<外部リンク>

平出遺跡の写真
平出遺跡

平出遺跡は、桔梗ケ原台地(奈良井川河岸段丘の一番上の段)の南縁に広がる縄文時代から古墳時代・平安時代に至るまでの集落跡である。昭和25年から27年にかけて大規模な発掘調査が行われたが、それは全国的にみても画期的なことであった。とくに古墳時代から平安時代の集落の遺構や出土品は、その時代の集落地研究の貴重な資料となった。

〔国史跡指定〕

  • 復元住居(古墳時代)は平出遺跡のシンボル
  • 平出の泉に育まれた集落
  • 塩尻市立平出博物館と歴史公園

平出の泉(地図<外部リンク>

平出の泉の写真
平出の泉

平出の泉は、比叡ノ山の東の山麓から湧き出す泉である。この辺りに広く分布する石灰岩の空洞に集まった伏流水が、鍾乳洞の出口から湧き出しているものと推定されている。今は堤になっているが、それは江戸時代に田畑の用水を目的に築かれたものである。湧水量は毎秒45リットル。水温は年間平均10度で冬期でも結氷することはない。湧水量が豊富で水質がアルカリ性でプランクトンの繁殖も少ない。常に清冽な状態を保ち、周囲に茂る老樹の影を水面に写し幽翠な境地を作っている。泉とその周辺は市の史跡に指定されている。
*この泉は縄文の太古より生活用水として利用され、集落形成の大きな要因になっている。

床尾神社のアサダ(地図<外部リンク>

床尾神社のアサダの大木群の写真
床尾神社のアサダの大木群

床尾神社は、スギを主とした針葉樹に囲まれているが、社殿のわきと、裏側から東南隅にかけてアサダの珍しい大木がそろっている。最大の木の幹囲は3.24メートル、樹高25メートル以上、つづいて2.44メートルのもの1本に、2.42メートル1本、2.32メートル1本のほか、幼樹も育っている。
アサダはカバノキ科の陽樹で、北は北海道から南は九州の霧島山まで広く分布するもので、その辺材は黄白色、芯材は暗褐色で、その材はいずれも堅く粘りが強く、光沢が美しい上に耐久力があるので、利用度が多く、特に器具材として杓子や棒などに用いられる。フローリングにすると木目が美しい。
誠に大木ぞろいの珍しい樹叢であり、市の天然記念物になっている。なお、地元の人々はこの木を「ひしゃく」と呼んでいる。

ぶどうとワインの里、桔梗ケ原

桔梗ヶ原ぶどう畑の写真
桔梗ヶ原ぶどう畑

桔梗ケ原は、奈良井川河岸段丘の最上段にあたるのでその下は砂礫の集まりである。水利がよくない上に火山灰も積もったので、作物の生育には適さない土地であった。したがって入会秣場(ススキなどの草原で家畜のえさや堆肥作りなどの草刈場)の状態が長く続いていた。
信濃なる須賀の荒野にほととぎす
 鳴く声聞けば時すぎにけり(万葉集)
広い外野を木曽から水を引き、水田化の計画もあったが、内野をもつ村からの反対も強く、今日「ぶどうの里」と言われるようになるまでの先人たちの努力には計り知れないものがあったことを思い起こされる。

善光寺街道分去れ

中山道と善光寺街道の分岐点の写真
中山道と善光寺街道の分岐点

近世になってから塩尻には多くの街道が交差し分岐するようになった。この本では、それぞれの街道をたどりながらその特質を順々に学んでいくのであるが、「善光寺街道分去れ」は、右の写真中の表示板にあるごとく中山道から善光寺への道が分れる地点を指していう。「分去れ」とは、本来「分家すること」「わかれ」の意味であるが、それを街道の分岐点にも当てはめるようになった。道が左右に分れる所を「追分け」ともいう。「追分節」は、それに因んだ唄。哀調を帯びた追分節は、全国各地に広められている。「塩尻甚句」にも「行こか塩尻帰ろか洗馬へ ここが思案の桔梗ヶ原」と唄われている。

言成地蔵

言成地蔵の写真
言成地蔵

言成地蔵は、白布で覆われた秘仏で、地蔵山新福寺の本堂に安置されていたが、住職が維新の廃寺の折り本堂を売却し、お地蔵様を境内の蔵に収めておいた。里人はそのたたりを恐れ、現在の地にお堂を建てて安置したといわれている。
【伝説】中山道が賑わっていたころ、洗馬の言成地蔵の前だけは、馬で通る人も必ず降りて過ぎる慣わしになっていた。ある日、一人の侍がそのまま行こうとしたところ、お地蔵さまの前で真っ逆さまに落ちてしまった。怒った侍はお地蔵さまを袈裟がけに切りつけた。傷ついたお地蔵さまを、和尚は袈裟でていねいに巻いてあげた。それでお地蔵さまは、今でもしっかりと袈裟で巻かれてあり、それを見たものは目がつぶれるというので、未だ誰ひとり見たものがないとのことである。

邂逅の清水

あふたの清水の写真
邂逅の清水

洗馬地区、奈良井川の河岸段丘の上部にあって、ケヤキの古木のわきから湧き出す泉である。邂逅(かいごう―会ふた―オオタ)の清水として、木曽義仲にまつわる伝説とともにこの地域の人々の生活用水ともなっていた。
【伝説】木曽義仲は、幼くして父を失い、信濃権守中原兼遠に木曽の地で、その子兼平とともに養育された。その後、兼平は今井を治めていたが、義仲の旗挙げを知ってただちに馳せ参じ、この清水で邂逅した。義仲の馬は強行軍にたいそう疲れていたが、兼平が馬の脚をこの泉の水で洗ってやると、たちまち元気を取り戻した。

洗馬宿(地図<外部リンク>

洗馬宿の町並みの写真
洗馬宿の町並み

中山道は、塩尻宿から洗馬宿へ入る手前で善光寺街道と合流する。したがって洗馬宿は、江戸方面と善光寺方面の追分に当たる。洗馬宿は、塩尻宿や本山宿と同時期につくられたが、昭和初期の大火でそのほとんどを焼失し、宿の面影はほとんどないが、追分に当たる場所には常夜灯の石燈籠が残されている。
宿内の施設として注目されるのが貫目改所で、中山道では板橋、追分そして中山道の中央地点に当たる洗馬宿の3カ所に置かれた。貫目改所では、改役人・帳付・秤取の役人がいて道中の荷物の貫目を検査し規定以上の貫目に対して超過金の取り立てなどを行った。

本山宿(地図<外部リンク>

本山宿の町並みの写真
本山宿の町並み

本山の宿は、慶長年間、中山道の宿として洗馬宿とともに成立したが、宿の区画は間口が4~5間(洗馬宿では平均3間)と広く、木曽(尾張領)との境ということでも重要な位置にあり、松本藩の口留番所が置かれ、米穀の出入りの取り締まりなどを行っていた。

蕎麦切り発祥の地(地図<外部リンク>

蕎麦畑の写真
蕎麦畑

ふつう蕎麦といえば、江戸時代にいわれた蕎麦切りのことである。本山が「蕎麦切り発祥の地」とされる理由として、蕉門の十哲の一人森川許六が残した「風俗文選」(1706年に刊行)の雲鈴(奥州南部の武士。後仏道に入る)の記録で知ることができる。「蕎麦切りといつぱ(いうのは)、もと信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける。…」
一茶が「信濃では月と仏とおらが蕎麦」と詠んだ頃より約100年も前の書に残されているとのことである。
本山の蕎麦名物と誰も知る
 荷物をここにおろし大根(蜀山人)

池生神社

池生神社と社叢林の写真
池生神社と社叢林

この付近を流れる奈良井川の谷は、右岸に河岸段丘を形成して本山の集落があり、左岸には山が迫っていて、そこに池生神社が建てられている。社叢は谷あいの傾斜地によくみられる湿性林で、トチノキ・カツラ・サワグルミなど高木に覆われている。林の中は、日射量が少なく湿り気の多い環境で、下草が多いのに比べて低木が少なく、比較的見通しの良いのが特徴である。樹齢数100年の大木に覆われた植物相は、信仰の場ということもあって、ほぼ自然に近い状態に保たれていて、特に、カタクリなど春先にみられる林床の草花は可憐である。この辺りの奈良井川の流れは、清らかで静かに流れている。社叢は市の天然記念物になっている

桜の丘公園(地図<外部リンク>

春まだ浅い桜の丘公園の写真
春まだ浅い桜の丘公園

平成14年6月、中山間地域総合整備事業の一環として、日出塩に「桜の丘公園」と「交流型生態系保全施設」が造成整備された。造成整備にあたって、宗賀各区より寄せられた10種類の桜が「子どもたちの健やかな成長」を願って植えられた。完成して間もないので、桜の風情を堪能することはできないが、将来が楽しみな公園である。交流型生態系保全施設としては、セツブンソウが保護育成されている。セツブンソウは、キンポウゲ科の植物で2~3月のころ、辺りに雪があるにもかかわらず可憐な花を咲かせるので、多くの人々に親しまれている。

釜の沢のマルバノキ

マルバノキの写真
マルバノキ

釜の沢は、宗賀地区の日出塩と本山との境を流れる奈良井川の支流で、この沢に自生しているマルバノキが、昭和44年植物研究家奥原弘人氏によって発見された。マルバノキは、それまで飯田市・清内路村・阿智村など長野県南部に見られ、木曽福島が分布の北限地とされていたので、鳥居峠を越えての発見にはみな驚かされた。マルバノキは早春に黄色い花をつけるマンサクと同じ仲間で、暗紫色の花をつけるのでベニマンサクとも呼ばれる。秋の紅葉が美しく、紅葉と同時に花が咲く。さらに、果実は年を越し、ちょうど紅葉の時期に満1年かけて成熟するので、紅葉・開花・結実が同時に見られるという珍しい植物で市の天然記念物になっている。

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