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中山道(1)

ページID:0003946 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

下諏訪宿から塩尻宿へ

塩尻峠

現在の塩尻峠の頂上の写真
現在の塩尻峠の頂上。右手木々の向こうの諏訪側は急な下り坂

江戸初期の中山道は、下諏訪から三沢を経て小野峠小野盆地に入り牛首峠を越え桜沢に抜ける小野街道を利用していたが、15年ほどで塩尻峠越えの道に変更された。塩尻峠には、一里余り人家がなく、参勤交代も難渋したので、諏訪側の今井村と塩尻側の柿沢村とに御小休所(茶屋本陣)が置かれた。峠から諏訪方面は、中山道有数の絶景で、渓斎英泉は「木曽街道六十九次」にここからの眺めを描いている。また、この一帯は、明治天皇御巡幸に因んで「塩嶺御野立公園」と呼ばれ、記念碑が建てられている。辺りはシラカバやレンゲツツジが美しく、バードウォッチングの名所としても有名で探鳥会も催されている。

茶屋本陣家屋の写真
茶屋本陣家屋

島木赤彦の塩尻峠
「幾度か通りなれたけれど、この嶺の風景は誠に格別なり。
見渡せば…白雪皚々たる中央山脈は恰も巨人の横臥せる如し。天よりも高き乗鞍岳は丁度路の正面に當たりて、いつも旅客の面を高く仰がしむるなり。麓をめぐる奈良井川の堤は一面の枯薄風に靡きあいて、桔梗ケ原の松林の絶間にかなたこなた民家の点在するさま、繪にかかまほしげなり。」

高ボッチ高原(地図<外部リンク>

高ボッチ高原牧場の写真
高ボッチ高原牧場

高ボッチ高原のほとんどが、草原(ススキ)である。まだススキが目立たない夏には、ハクサンフウロ・コバギボウシ、マツムシソウなどなじみのある草本が目立つ。また、これらの花に集まる昆虫の数も多く、ヨツバヒヨドリにアサギマダラ・マツムシソウにクジャクチョウ・ノアザミにはヒョウモンチョウの仲間といった取り合わせが、高原情緒をいっそう引き立て風情がある。このような景観は、かつて、ここ一帯が採草地や放牧地だったことと深い関係がある。
*八ヶ岳中信高原国定公園。
*高ボッチからの360度の展望、草競馬等々、市内外の人々に親しまれている。

東山一里塚(地図<外部リンク>

東山一里塚の写真
東山一里塚

東山一里塚には1基だけ塚が残っている。東山のこの一帯は、旧中山道の塩尻峠をはじめ、茶屋本陣や立場茶屋跡、犬飼清水の伝説等、旧中山道の面影が偲ばれるところとなっている。

  • 一里塚
    一里塚は慶長9年、江戸幕府の命によって各街道に築かれた。江戸の日本橋を起点として36町を一里とし、一里ごとに道の両側に塚を造り、その上にはマツやエノキなどを植え、遠くからも見える道程標とした。また、旅人の憩いの場あるいは人馬の賃金の標準にもした。
    市内の一里塚は、東山・塩尻・平出・牧野・日出塩・若神子・押込・橋戸・桂沢があり、塚が残っているものは平出と東山および若神子の3カ所である。

永井坂の首塚・胴塚

永井坂首塚堂塚の写真
永井坂の首塚・胴塚

南北朝時代には、塩尻峠をはさんでしばしば合戦があった。戦国時代の最も大きなものは武田晴信(信玄)と小笠原長時との塩尻峠の戦いである。天文17年2月武田晴信が小県郡上田原で村上義清に敗れると、信濃の武将たちは小笠原長時を中心として5000の兵で下諏訪に攻め入った。長時は7月19日、塩尻峠・勝弦峠一帯に大合戦をし、初めは優勢であったが味方の裏切りにより1000余人の死者を出して大敗してしまった。
こうして晴信は、信濃攻略の足掛りを固めることができた。いまも峠下の永井坂に戦死者を弔った首塚・胴塚がある。
歌碑
 野に山に討死なせし益良男の
 あとなつかしき柿沢の畔

永福寺(地図<外部リンク>

永福寺の写真
永福寺

諏訪の大工棟梁立川和四郎は、近世の名工「立川流和四郎」の名によって知られ、幕府から内匠の称号を受けており、名作として名高い、国宝京都御所・諏訪大社・三州豊川稲荷・駿州浅間神社などがある。
初代和四郎は富棟といい、文化4年、64歳で没しているが、特に建築にすぐれており、2代目和四郎富昌は彫刻に名作を残している。
塩尻市周辺では、初代和四郎作のものに北小野の矢彦神社拝殿(天明2年)、松本市和田の無極寺本堂(享和1年)、2代目富昌の建築は平出の伊夜彦神社本殿(文化14年)、北小野の矢彦神社神楽殿(天保13年)等がある。
永福寺観音堂については、安政2年、2代目富昌と結んだ請負契約書も現存している。富昌は塩尻宿の沢潟屋に泊まり、棟梁のかたわら、堂の彫刻に精根をこめていたが、翌安政3年11月4日、彫刻用材とするため、境内の大ケヤキの枝おろしをしていた際、枝に打たれて74歳で死去した。
その後、工事は3代目富重がうけつぎ、4年後に完成したのが、現存の観音堂である。
したがって、この観音堂は2代目富昌の遺作であり、見るべき彫刻としては、向拝の中備にある竜の彫刻、頭貫の先端の象、つなぎ虹梁の獅子、たばさみのボタンの彫刻等がある。

小坂田公園(地図<外部リンク>

道の駅小坂田の写真
道の駅小坂田のある小坂田公園一帯

小坂田公園は、大正3年に塩尻消防組の創立20周年を機に公園化された。当時の記録に、「3月より組員総出にて起工。庭園を設け、車道を通じ、荊棘を伐して茶亭を築き、梅桜を植え、遊船を浮かべ運動具を備え以て衆人の歓楽に供した。1000円近い費用は、いずれも村内有志の寄付に依ったもので、その4月20日開園式を挙げた。」とある。
現在では、23ヘクタールにおよぶ緑の都市公園として、芝生広場・子ども広場・遊歩園路などの憩いのスペースが広がり、ゴーカート・自然博物館等々施設も充実している。

塩尻宿(地図<外部リンク>)

塩尻宿本陣・脇本陣跡の写真
塩尻宿本陣・脇本陣跡

塩尻宿の歴史は古く、武田信玄の時代以前にさかのぼる。その当時の宿は、五千石街道沿いの今の古町辺りにあった。江戸時代、五街道の1つ、中山道が制定された当初は牛首峠を越える小野街道が採用され、小野から木曽の桜沢に連絡されたので、塩尻宿はもとのままだった。やがて塩尻経由に改められるにともないもとの宿も移され新しい塩尻宿がつくられた。
本陣の規模は中山道中最大で、宿内には高札場、松本藩の口留番所が置かれた。また幕府の代官所塩尻陣屋が置かれた時期もあり、重要な場所であったことがうかがわれる。塩尻宿は、2度ほど大火に見舞われ、わずかな家屋を残して、宿場時代の遺構は失われてしまった。

小野家 【重文】(地図<外部リンク>

小野家住宅の写真
小野家

小野家は、塩尻宿の旧本陣の斜め向かいにあった旅籠で、「いてふや」と呼ばれていた。街道筋にみられる商人や職人の民家は、町家と呼ばれ、隣家との間隔が狭く(ときには互いに壁を接するように)建てられていた。塩尻宿は明治15年に大火にあったが、小野家は西隣りの武居家とともにかろうじて残った。建物は天保2年に建てられ建築様式は切妻造平入で、2階建桟瓦葺。2階には5室の客室があり、その室内装飾は幕末期の大都市で流行したものであり、当時の宿場の雰囲気をしのばせるものとして貴重なものとされている。
*国重要文化財

阿禮神社(地図<外部リンク>

阿礼神社の写真
阿禮神社

阿禮神社は塩尻宿の「鉤の手」の脇にあり、「延喜式」神名帳にものっている古い神社である。もとは東山の五百渡岩付近にあって、後に柿沢の明神平に移され、塩尻宿ができてから八幡社境内に移され、現在に至っている。
【祭典と屋台】毎年7月の例大祭に先立って、奥の院から上町の旅宮へ神霊を移す儀式が行われる。祭典の当日この神霊を本宮にお迎えする神輿渡御の儀式があり、各区から区長をはじめ諸々の代表者が供奉する。神輿に従って屋台が続き旅宮に至り、神(祖先)を迎える儀式に参列し、また神霊(祖霊)に従って本宮に帰る。御輿渡御の形といい、屋台運行の形式といい、姿・形こそ近代化されているが、その本来の姿は、太古の人々が祖霊を中心にしてこれに従って移動する、部族移動の姿を、今に伝えているものといわれている。

堀内家 【重文】(地図<外部リンク>

堀内家住宅の写真
堀内家

堀内家は、江戸時代堀ノ内村の名主である。この建物は19世紀初期(文化年間)に、下西条村から移築したものと伝えられている。建築様式は本棟造で切妻造妻入。板葺で勾配の緩い大屋根と庇棟飾りに特色がある民家形式の一つである。もとの建物は、18世紀後期(宝暦~天明年間)のものらしいが、いくたびか改造されたため、当初の姿が不明なところも多い。しかし、この本棟造の外観は、2段重ねの破風、棟飾りの「雀おどり」、妻の壁部分の出格子窓等、美観を意図した意匠で高く評価されている。
*国重要文化財

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