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中山道(3)

ページID:0003948 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

日出塩から木曽平沢まで

お境橋

お境橋の写真
お境橋

中山道を木曽路の入口あたりで横切り、奈良井川に注ぐ桜沢(境沢)に、一つの橋がかけられている。この橋は、尾張藩と松本藩との境に当たり、「お境橋」と呼ばれた。橋の中央を境とし橋のかけ替えや修復の費用は、両藩で公平に負担した。
【伝説】お境橋とその近くの沢に、祀られている荒沢不動についての言い伝えがある。…病で倒れていた山伏を娘が救った。…よんどころない事情を持つ山伏は、不動明王の占いとまじないを娘に教えて去った。娘は、なけなしの財布をはたいて不動様を造らせ、人目につかない滝のそばに安置した。…山伏の安否を占うと、「死」と出た。…娘は山伏が工事中のお境橋の真中から落ちたことを知る。

「是より南木曽路」の碑

中山道がいよいよ木曽路に入ることを示す碑の写真
いよいよ木曽路に入ることを示す碑

奈良井川支流の一つに桜沢がある。明治4年までは、この沢が北の松本藩と南の尾張藩との境となっていた。「是より南木曽路」の碑は桜沢の集落に住んでいた百瀬栄氏によって、このお境橋の南西のたもとに、昭和15年に建立された。表には「是より南木曽路」、裏には「歌ニ絵ニソノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南24里ナリ」と刻まれている。山が間近に迫る碑の背景は、春にはシダレザクラが咲き誇り、木曽路の旅の出発点として最もふさわしい場所となっている。

桜沢

桜沢の写真
桜沢

桜沢は、木曽路の入口にあたる集落で「是より南木曽路」の碑も建てられている。本山宿と贄川宿の間の宿で、立場茶屋・旅籠などで栄えた。国道の改修工事で様相は変わったが、両側に山が迫り、V字の谷を流れる奈良井川とともにいかにも木曽路の入口にふさわしい風情である。明治天皇巡幸の際(明治13年)は、木曽路最初の御小休所となった。このときの一行約400名も、桜沢の各家に分かれて休息をとったとのことである。
中山道が定められた当初は、下諏訪から伊那小野宿を通り牛首峠を越えてこの桜沢に至る道筋(小野街道)が中山道であった。この小野街道の途中から南に入った所に、江戸時代には「山中村」といわれた桑崎集落があった。今は住人はいないが、小学校校舎、桑崎神社や石仏などが往時をしのばせている。

若神子一里塚

若神子一里塚の写真
若神子一里塚

国道19号、桜沢を過ぎ片平橋を渡って、若神子の集落に入る少し手前の右側、土手の上に一里塚がある。かつては街道の両側に塚があったが、鉄道や国道の拡幅、改修等により東側の塚は消失し、残る塚も半分が削られた。市内で中山道一里塚として塚が残っているのは東山、平出とここの3ヶ所だけである。

メロディー橋

メロディー橋の写真
メロディー橋

国道19号から分れて贄川関所跡や贄川宿へ行く、JR中央本線の跨線橋で、明治後期の鉄道敷設当時のままのレンガ造りのアーチ橋が残っている。かつての国道は、この橋を渡って贄川宿の町並みに入っていた。現在は歩道となっており、隣に並行して車道が通じている。この歩道の欄干には鉄琴仕様の木曽節のメロディーを奏でる設備が設置されていることからこの名が付いている。

贄川関所(地図<外部リンク>

贄川関所跡(復元された建物)の写真
贄川関所跡(復元された建物)

贄川宿は、木曽路を北から入る最初の宿場である。宿場の規模は木曽十一宿中最小であるが、尾張領木曽谷の重要な防衛拠点であった。贄川関所は、宿の北の端の入口に設けられている。この関所は、「軽き御関所」ともいわれ、福島関所の「添え」としての付属の関所であった。関所の機能の一つに女改めがある。土地の婦女が、縁組や寺社仏閣参りや奉公のため通過するときは、領主などの証文や庄屋の手形を必要とした。そのほか、貴重な木曽檜を使った曲物や漆器、それに木材の不正な移出などを取り締まる白木改めが行われていた。関所跡は、昭和51年に復元された。

贄川宿(地図<外部リンク>

「是より南木曽路」の石碑を抜けると、そこから木曽路が始まる。贄川宿は木曽路11宿の入口であり、中山道の交通の要衝として贄川関所がおかれ、旅宿業や遠隔地商業で発展した。現在は、数度の大火により家並みは失われたが、わずかに上町に古い建物が残り、往時の姿を偲ぶことができる。この贄川からは、小澤文太郎重喬をはじめ20人を越える平田篤胤没後門下の国学者を輩出し、とくに千村景村や贄川勝巳などは桂園派の歌人としてよく知られている。

深澤家【重文】(地図<外部リンク>

深澤家の写真
深澤家

深澤家は、行商を家業とした典型的な贄川の商家である。屋号を「加納屋」と称し、遠方への行商を積極的に行って成功し、木曽を代表する商家となった。主屋は嘉永7(1854)年の建築で、主屋の奥には、文政・文久に建てられた蔵が二棟あり、江戸時代の町家における各建物の有機的なつながりを現在に伝える希少な存在である。
*国重要文化財

贄川のトチノキ(地図<外部リンク>

トチノキの写真
贄川のトチノキ

トチノキの大木としては、県下第一と言われ、長野県天然記念物に指定されている。樹齢は600年以上と推定され、幹回りは約8.6メートル、胸高周囲で9.8メートル、樹高は32メートルに達する。枝張り約900平方メートルにもなり、樹姿・樹幹の美しさは長野県天然記念物にふさわしい。トチノキは全国の山地の谷合に広く分布し、鳥居峠および本山の池生神社の社叢のトチノキの巨木もよく知られている。また、木目が美しく、「とちもく」と呼ばれる小さい渦巻きを多数つくり、木工装飾品などの材として利用されている。

観音寺(地図<外部リンク>

観音寺の写真
観音寺

楊梅山観音寺は、贄川の西町裏にあり、真言宗智積院末で、本尊の11面観世音は室町時代の作である。大同元(806)年創立と言われ、本堂は安永4(1775)年に再建された。山門は寛政4(1792)年に再建された楼門で、市の有形文化財に指定されている。寺の背後は墓地になっており、そこには幕末から明治にかけて活躍した国学者小澤文太郎重喬の墓がある。

麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)(地図<外部リンク>

麻衣廼神社の写真
麻衣廼神社

「麻衣」は木曽の枕詞である。贄川の西町裏、観音寺の裏にあり、建御名方命を祭神とし、事代主命と保食命を合殿に祀る。天慶年間に諏訪坂の東に鎮座したが、天正年間に武田氏と木曽氏の戦いで焼失したため、文禄年間に現在地に再建された。
木曽では建御名方命を祀る最古の神社だといわれている。本殿は市有形文化財、社叢は市天然記念物に指定されている。7年目ごとに御柱祭が行われるが、御柱の並び方が諏訪大社や小野神社のそれとは異なり、本殿に並行するように1列に建ち並ぶ。

平沢諏訪神社(地図<外部リンク>

平沢諏訪神社の写真
平沢諏訪神社

信濃国一宮の諏訪大社は、建御名方命と八坂刀女命を主祭神とするが、本宮(諏訪市)・前宮(茅野市)・下社〈春宮〉〈秋宮〉(下諏訪)と四つの鎮座地があり、摂社・末社は全国に多数ある。
平沢に勧請した諏訪神社の本殿は、天正10(1582)年の武田勝頼と木曽義康の合戦で焼失、享保17(1732)年に再建された。本殿は市有形文化財、社叢は市天然記念物に指定されている。その境内の下には松尾芭蕉の句碑が立てられている。
送られつおくりつはては木曽の秋 芭蕉

木曽漆器館(地図<外部リンク>

茶道具の写真
茶道具

木曽平沢の漆器は、江戸時代から中山道のみやげ物として人気があった。伝統の技を受け継いでいるとともに、現代のライフスタイルに合わせた新しい塗り方や製品を生み出し、たくさんの漆器店が軒をつらねているのが平沢である。
木曽漆器館は、漆器の産地ならではの博物館で、漆器の製作工程をはじめ、作品や資料を展示している。何世代にもわたって受け継がれ磨きぬかれてきた伝統技術の粋と職人の息吹きが、数々の展示品から感じられる。
重要有形民俗文化財の木曽塗の製作用具等、3729点が収蔵展示されている。

木曽くらしの工芸館(地図<外部リンク>

くらしの工芸館の写真
木曽くらしの工芸館

この工芸館は主要な地場産業である漆塗工芸品を中心に、自然とのかかわりのなかから生まれてきたさまざまな文化、数100年にわたって伝承されてきた技など、この地のくらしに根づいた地場産業の魅力を紹介するとともに、新しい生活提案も行っている。

うるしの里広場(地図<外部リンク>

うるしの里広場の写真
うるしの里広場

木曽平沢の町並みの西にある「うるしの里広場」は、四季折々の風情を肌で感じる事ができる。
木曽谷を訪れる人達がゆったりとした気分で憩える広場だ。

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