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中山道(4)

ページID:0003949 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

木曽平沢から宮ノ越へ

杉並木と二百地蔵(地図<外部リンク>

中山道の杉並木の写真
中山道の杉並木

奈良井駅の上にある八幡神社への石段を右に折れると、杉の巨木が10数本並ぶ古道がある。この道は、中山道であった当時からのもので、その並木道を進むと小さな祠とともに多数石仏がまつられている。
これが二百地蔵である。実際には、地蔵よりも観音像が多くまつられている。その上にある八幡神社の本殿は、江戸時代末に建立された一間社流造で、拝殿の中に収められ、隣には、やはり江戸時代末に建築された舞屋があって、内部中央には廻り舞台も造られている。

二百地蔵の写真
二百地蔵

奈良井宿(地図<外部リンク>

奈良井宿下町の町並みの写真
奈良井宿下町の町並み

「奈良井宿は、木曽十一宿はもとよりのこと、中山道の宿場全部の中でも旧状をもっともよくとどめ、江戸・明治の建築がおよそ60パーセントを占めている点から実に貴重な文化財である。それゆえに昭和53年文化庁は、「《重要伝統的建造物群保存地区》に選定した」と、工学博士藤島亥治郎氏は自著『中山道』で説明している。
中山道沿いに約1キロメートルの家並みが連続しており、南の京都側から上町・中町・下町に分かれ、街道の山側には、六つの水場と五つの寺が並ぶ。寺や水場の数からも、いかに人々がこの宿に集まったかが容易に推測され、その繁栄の様は「奈良井千軒」とも謳われた。現在も町のつくりやその家並みは当時の面影を色濃く残し、出梁造や蔀戸、鎧庇、猿頭など、奈良井宿の建物の特徴をよく見ることができる。町並みの規模や整備が進んでいるということから、今に残る日本随一の宿場町といっても過言ではない。

旧中村家住宅【中村邸・重文】(地図<外部リンク>

中村邸の写真
中村邸

中村邸は、奈良井宿の中でもっとも旧観をとどめている民家で、天保年間の建築とみられている。もと櫛職人であった中村利兵衛の住まいで、みせ(街道に面した表の部屋)は蔀戸になっており、庇は奈良井宿独特の鎧庇、それを上から猿頭で押さえている。出梁造の主家は間口3間2尺、奥行9間半で、入口は京風の片開き大戸にくぐり戸がついている。内部には、当家の間取り図や幕末から明治期にかけての櫛商人の金銭出入帳や漆櫛などが展示されている。
国指定重要文化財である。

手塚家住宅【上問屋史料館・重文】(地図<外部リンク>

上問屋史料館の写真
手塚家上問屋史料館

手塚家住宅は、奈良井宿中町に位置し、重伝建奈良井保存地区を代表する町家建築のひとつで、平成19年に国の重要文化財に推定された。天保11(1840)年に建設された建物で、この家の家格や職業を反映した二つの入口をもつ左右対称の正面外観、主屋とほぼ同規模の座敷棟を備える点など奈良井宿では特異な建築的特徴を持つ。
手塚家は、近世を通じて宿の問屋役、同時に庄屋役を断続的につとめた家で、明治時代に入ると奈良井駅郵便御用取扱所となり、昭和48年まで郵便業務を取り扱っていた。また、明治13年の明治天皇巡幸の際に行在所をつとめた家でもあり、主屋背後の座敷棟には上段の間が備えられている。
昭和46年に家屋の復原整備をおこない、建造物全体とともに手塚家に残る近世・近代の史料群や書画骨董などを展示し、上問屋史料館として公開されている。
国指定重要文化財である。

原家住宅【徳利屋】郷土館(地図<外部リンク>

徳利屋原家の写真
徳利屋原家

原家住宅は、奈良井宿中町に位置し、江戸時代後期に旅籠として建てられた町家で、市の有形文化財に指定されている。上問屋手塚家と同じ天保年間に建築されたものと推定される。
原家は、屋号を「徳利屋」と称し、江戸時代中頃には、木曽代官山村氏の御用達商人をつとめるなど奈良井宿最有力の商人に成長した。近世末には、御嶽講の定宿などを中心とする旅籠屋を主な家業とし、昭和12年まで旅館業を営んだ。旅籠経営の繁栄に伴って明治・大正期に客室の増築など改造が加えられている。当時の看板であるマネキが多く残されており、その一部がドジの壁に飾られ、旅籠徳利屋の歴史を物語っている。
昭和50年に徳利屋郷土館として主屋の一部を公開し、そばをはじめ飲食の提供をしている。

鎮神社(しずめじんじゃ)(地図<外部リンク>

鎮神社の写真
鎮神社

奈良井の鎮守「鎮神社」は、木曽義仲の養育者である中原兼遠が鳥居峠に建立したが、天正10(1582)年に戦火で焼失し、奈良井義高によって現在の地に移されたと伝わる。同社の記録である「神名記」によると、元和4(1618)年、奈良井宿に疫病が流行り、これを鎮めるために下総国(千葉県)香取神宮から経津主命を勧請し祭祀をはじめたという。本殿は一間社流造・こけら葺で全体に漆が塗られており、寛文4(1664)年、大桑村の定勝寺山門(国重要文化財)を建築した棟梁田中庄三郎重房によって建築された。本殿は市有形文化財、社叢は市天然記念物となっている。

木曽の大橋(地図<外部リンク>

木曽の大橋の写真
木曽の大橋

木曽の大橋は、樹齢300年以上のヒノキを使用した、奈良井川に架かる総檜造りの太鼓橋で、平成元年に着工し、3年の歳月と総工費3億3千万円余りをかけて完成した。主桁の長さが33メートル、総幅6.5メートル、水面より橋の中央部までの高さが7メートルの大きな木橋で、橋脚を持たないワンスパンの木橋としては、その幅員が日本一となっている。橋の下部の木組からは匠の技を垣間見ることができ、迫力あふれ木のぬくもりを感じられる格好のフォトポイントとなっている。

鳥居峠(地図<外部リンク>

鳥居峠の写真
鳥居峠

奈良井宿と藪原宿とを結ぶこの峠(海抜1197メートル)は、街道文化の遺産の趣もあり、菊池寛の代表作である「恩讐の彼方に」の舞台として描かれたり、また松尾芭蕉ら多くの歌人・俳人も訪れ、その景勝をうたった多くの石碑も残る。また、鳥居峠は信濃川水系と木曽川水系との分水嶺であり、奈良井川(奈良井川―犀川―千曲川―信濃川)の源流地の一つになっている。奈良井宿から石畳の入口を通り、峠を登っていくと、遠く霊峰御嶽山や木曽駒ヶ岳、乗鞍岳を望み、春の新緑、秋の紅葉を求めて訪れる人々に、絶好のウォーキングコースとなっていて、信濃路自然歩道の指定を受けている。
鳥居峠越えは、とりわけ険阻にして厳しかったが、英泉の浮世絵にも一息つく人々の様子がうかがえる。なお、鳥居峠については次のような伝説がある。
【伝説】義仲の硯水
むかし木曽義仲が、木曽の宮ノ越で平家討伐の旗挙げをして北国へ攻めのぼるとき、鳥居峠の頂上で大夫坊覚明に、願書を認したためさせて御嶽へ奉納したときのすずりの水だという。
そのとき硯水のかたわらに柳の木があって、義仲はその一枝を折って、さかさに水のそばにさし、「我が事成らばこの柳に根を生じて繁茂するであろう」と言ったといい、はたして根づいた柳が生長して硯水のそばにこのごろまであったが、今は枯れてないという。

子産の栃

子産の栃の写真
子産の栃

この地では、子供の頃、子供が泣くと「峠の栃ノ木へ捨ててくるぞ」とおどかされたものだ。中山道でにぎわった頃、峠の栃ノ木の群生の中で、一番大きい木の根元に空洞があり、その中に捨て子があった。その捨て子を村の中で、子宝に恵まれない人が育てて幸福になったことから、手に負えないと元へ返すと言い、また子宝に恵まれない人にはこの実を煎じて飲めば子供に恵まれると言い伝えられている。

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