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「本洗馬歴史の里資料館周辺」ガイドマップ
「本洗馬歴史の里資料館周辺」ガイドマップの説明を掲載しています。
釜井庵と本洗馬歴史の里資料館
槻井泉神社(つきいずみじんじゃ)
洗馬郷・芦ノ田水田地帯の水源と開田に係る神と思われます。長い石段を登ると、高遠の殿様からもらった鎧兜等が納められた社があります。初夏には、槻井泉神社の大藤「天狗の藤」が見事です。
慈眼山心念堂(じがんざんしんねんどう)(芦ノ田観音堂)
室町末期の作・千手観音木像を祀る観音堂です。この本尊は洗馬ノ庄との由緒から、京都三十三間堂国宝湛慶作の本尊千手観音像を模しており、病気回復を祈願する人が多く訪れます。明治維新後は、小学校校舎(秉彝(へいい)学校)としてつかわれ、明治11年に観音堂に復しました。お堂の柱回りには十二支の彫物が飾られています。周辺には多くの石造物があり、鬱蒼とした森林と湧き水のせせらぎが、豊かな時の流れを伝えています。その一つ「青面金剛庚申像(せいめんこんごうこうしんぞう)」は、陰刻の素朴な力強い線が魅力で、宝剣と宝輪をバットとボールに見立てて、野球の神様として少年たちによばれているのもほほえましいところです。
妙義(みょうぎ)山(妙義山城址)
長興寺山(953.6メートル)をピークに、山稜の北端、妙義山城址のある妙義山は標高895メートルです。妙義山城址の主郭部は、妙義神社が祀られている山頂の曲輪などからなり立ち、山全体に城跡の面影を見ることができます。また、赤松を中心に、かやの大木や栗林が広がる豊かな山麓となっています。
熊谷岱蔵(くまがいたいぞう)
洗馬村元町で明治13年に生まれ、東京帝国大学医学部を卒業し、東北帝国大学総長等を歴任された結核研究の大家で、国民病ともいわれた結核の死亡率を半減させ、またインフルエンザの血清による免疫法、血糖降下剤のインシュリンの分離抽出に成功するなど多大な功績を残し、県下初の文化勲章が授与されました。
長興(ちょうこう)寺、福聚(ふくじゅ)寺、東漸(とうぜん)寺
長興寺からサクラの美しい福聚寺を経て東漸寺までは、静けさの中に悠久のときの流れが漂います。
- 長興寺の山門は、1828年に本洗馬村太田の塩原源助が建てたものです。唐獅子の木鼻や冠木前方の大きな龍の彫刻などがこの山門の見せ場となっています。
- 長興寺の庭園は、山畔を利用して、石組み刈り込みを意匠し、池泉に亀島らしい形態をみせる池泉様式の庭で、江戸時代の中期頃につくられた時代の特徴がよく表現されたものです。
- 長興寺の山門裏手山麓にある庚申塔は、年代が書いてあるものでは市内最古と言われ、延宝2年(1674年)に建てられたものです。
- 東漸寺本堂は1767年に建立された浄土宗の寺院で、本堂には、宮殿(くうでん)が安置されています。薬師堂(1698年)の厨子も見ものです。
- 東漸寺のシダレザクラはエドヒガンの変種で、樹姿がおもしろく大木になるので特に珍重されています。このシダレザクラは、目通り幹回り4.89メートルもあり、地上4メートルから枝を出しています。早春に、葉より先に美しい花を咲かせます。若葉の頃、福聚寺から東漸時にかけては、艶やかですがすがしいサクラの園となります。
- 東漸寺・信斎館にある東漸寺所蔵の奥田信斎作品は、窯をあけ、会心の作一点を、信斎自身が東漸寺の仏前に供えたものと伝えられています。信斎作品の特色である大きな作品は少ないが優れた作品が多く、伝来確実な信斎焼コレクションとしては、随一の収蔵であります。信楽焼発祥の地に生まれた信斎は、明治初年から18年までこの地で製陶し、窯は東漸寺から南に500mほどの山麓にあった連房の登り窯でした。相撲が強く酒豪であった信斎は、地域の人々とも交わり、おおらかなのんびりした性格の人であったと伝えられています。
菅江真澄(すがえますみ)
菅江真澄は、天明3年(1783年)から4年にかけて、陸奥への旅の覚悟と決意を固めるまで釜井庵に居住しました。著者「真澄遊覧記」の「信濃」の部分はここで執筆しました。
琵琶橋
この橋は、洗馬郷の出入口に当たる古来からの重要な交通路でした。江戸時代は、高遠藩により架け替えをした橋で、洗馬騒動の要因の一つでもある「琵琶橋事件」の舞台でもありました。天下一の琵琶の名手蝉丸が、澄みきった秋の月、さざ波の砕け散る流れの中から生みだした、秘曲伝説に由来する橋でもあります。
洗馬小学校
洗馬の地は寺子屋が多く、文化の里として栄えてきました。学制発布とともに、思誠(小曽部)、明強(元町)、秉彝(芦ノ田)、強心(岩垂)の四つの学校が生まれ、明治22年には洗馬尋常小学校が発足しました。校内にある老松は、その歴史を物語るものとして大切にされています。
太田の清水
「大変暑い日、木曽義仲とその重臣今井兼平は長年の歳月を経て出会った。義仲の馬は、強行軍で大変疲れ、進むことができなかった。そこで兼平は、この馬をケヤキの根本にこんこんと湧く清水につれていき、馬の脚を洗ってやったらたいそう元気になった。それ以来、この清水を「会うたの清水」と呼び、「洗馬」の地名の由来になった。」との伝説もあります。