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塩尻市奈良井重要伝統的建造物群保存地区

ページID:0003735 更新日:2021年9月17日更新 印刷ページ表示

塩尻市奈良井重要伝統的建造物群保存地区について記載しています。

伝統的建造物群保存地区での建築行為について

奈良井伝統的建造物群保存地区での建築行為を予定の方は、こちらもご確認ください。

伝統的建造物群保存地区制度(伝建制度)のしくみ

 伝統的建造物群は、文化財保護法により「周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの」とされる文化財です。
 市町村、市町村教育委員会は、伝統的建造物である建築物や工作物と共に、これと景観上密接な関係にある樹木、庭園、池、水路、石垣等を環境物件として特定します。また、これらを含む歴史的なまとまりをもつ地区を、伝統的建造物群保存地区(伝建地区)として決定し、保存を図ります。
 国は市町村の申出にもとづき、わが国にとって特に価値が高いと判断されるものを重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定し、市町村、市町村教育委員会の取り組みを支援します。

塩尻市奈良井重要伝統的建造物群保存地区の概要

保存地区データ
名称 塩尻市奈良井重要伝統的建造物群保存地区
種別 宿場町
所在地 長野県塩尻市大字奈良井 字峠、字宮ノ沢、字宮ノ前、字東町端、字東町、字東町裏、字川原、字西町端、字キウシン、字西山ノ岸、字西町、字西町裏、字上ノ山、字池ノ沢、字西山裏、字西家裏、字西山西、字下城、字西山岸、字城及び字下峠の各一部
面積 約17.6ヘクタール
条例制定日 昭和53年2月16日
地区決定日 昭和53年2月24日
保存計画決定日 昭和53年2月24日
選定日 昭和53年5月31日
選定基準 (三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの

※重要伝統的建造物群保存地区選定基準
 伝統的建造物群保存地区を形成している区域のうち次の各号の一つに該当するもの
  (一)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
  (二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
  (三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの

保存地区の範囲

奈良井重要伝統的建造物群保存地区範囲の画像
塩尻市奈良井重要伝統的建造物群保存地区範囲

歴史と保存の歩み

 塩尻市は長野県の中央部に位置しており、市域は松本盆地の南端に広がる北部と木曾地方の北東端にあたる山岳地帯の南部に大別されます。そのなかで奈良井は、中山道や奈良井川が南北に縦断する市域の最南部に位置し、標高900メートル台の河岸段丘下位面に発達した集落です。
 歴史的に見ると、古代より木曾は信濃の国の入り口として重要視され、木曾路もまた、鎌倉・室町時代までには信濃と京都・伊勢などを結ぶ重要な通路として発展しました。
 慶長7年(1602年)、徳川幕府により中山道に67(東海道と重複する草津、大津を加え69次ともいう)の宿駅が定められるなかで、奈良井も木曾11宿のひとつとして、幕府関係の公用旅行者や参勤交代の大名通行のために人馬を常備し、輸送・通信などの業務の義務を負うこととなりました。この代償として、一般の通行に対する独占的な稼ぎが許され、多くの旅行者の宿泊・休息のための旅籠や茶屋などが設けられ、宿場町として大いに繁栄しました。
 さらに、奈良井は檜物細工や塗物、塗櫛などの木工業も盛んで、徳川の治世には、尾張藩から木曾谷住民に許された御免白木6,000駄のうち1,500駄が奈良井に与えられており、これらの庇護も加えて木工業の集落としても栄えました。
 宿場と木工業により発展・形成された奈良井の町並みは、飢饉や火災により多少の変動はあったものの、近代以降大火がなかったことから近世末の形式を持つ町家が多く残りました。さらに、明治政府による宿駅制度の廃止、明治末期の中央西線の開業により旅客業としての発展はなくなり、近世の宿場町の面影は十分に残されることとなりました。
 こうして残された町並みも、昭和44年に奈良井宿の上町にある近世から続く塗櫛の問屋中村家住宅が、神奈川県川崎市の日本民家園に移築される話が持ち上がりました。これに対して、「宿場の建物は、地元の貴重な財産である」という住民の声が沸きあがり、結局移築は取りやめになり公共の建物として復原修理がおこなわれ資料館に生まれ変わりました。さらに、この声は奈良井宿の町並み保存運動へと高まっていき、昭和49・50年に実施された奈良国立文化財研究所による町並み保存対策調査によりその歴史的価値が明らかにされ、昭和53年に宿場町奈良井の町並みは、国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

保存地区及び町並みの特徴

 保存地区は、東西約200メートル、南北約1,350メートル、面積約17.6ヘクタールの範囲で、奈良井川左岸に広がる中山道に沿った約1,000メートルにわたる宿場集落と、南北両端の高台に位置する鎮神社と八幡神社、町並みの西側の段丘崖の裾に5つの寺院を含んだ地域です。
 地区のほぼ中央を中山道が南北に縦断し、その両側に近世前期に遡る奥行きの深い短冊状の敷地割が残されています。宿場は、街道に沿って南の京側から上町、中町、下町の3町からなっています。特に中町は、本陣、脇本陣、問屋、庄屋などの宿場や村としての中核的な施設が置かれていました。
 中町の中央西側に位置する上問屋手塚家は、奈良井宿において江戸時代を通じて宿駅制度の問屋を主とする宿場内の要職を代々務め、その住宅は近世末期の問屋建築の姿を現在に留めるものとして、平成19年に国の重要文化財に指定されました。
 宿場内の道幅は、上町が2間半から3間、中町が3間から3間半、下町が1間半から2間半と宿の中央部で広く、また、町境などに火除地や小路が設けられました。また、上町のはずれの鎮神社境には高札場が置かれていました。また、奈良井には貞享3年(1686年)をはじめとして、6舗の宿絵図などが残されており町の変遷を知ることができます。これによりますと、近世前期の町割りが現在までよく踏襲されているが、火災やその他の理由により細分化されたところがあり、さらに町並みが江戸側、京側の南北両側に膨張したことが確認できます。
 このように奈良井宿は、現在も当時の姿を良く残し、歴史的な価値を内包する宿場町としての町並み景観を呈しています。

奈良井の町並みの画像
奈良井の町並み

街道に沿って敷地間口いっぱいに並ぶ主屋の画像
街道に沿って敷地間口いっぱいに並ぶ主屋

伝統的建造物の特徴

 奈良井の建造物は、近世の宿場町や木工業にかかわる町の特徴を、顕著に残している保存地区です。
 町家の大部分は、街道に並んで敷地間口いっぱいに建っています。平面としては、片側を土間として間口の広さに応じて居室を表から裏に一列に並べるものと、二列に並べるものが一般的ですが、表土間や居室の中央に土間を持つものも稀にあります。このような違いは職種によるものと思われますが、幕末の宿絵図によれば、旅籠屋、茶屋、米屋、酒屋、塗師屋、櫛屋などがあったことがわかっています。
 大部分の主屋が、切妻・平入、中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁としています。この張り出した部分の造りをこの地域では出梁(だしばり)造りといい、大きな特徴となっています。屋根は、勾配をゆるく前面に出していることから、深い軒となっていることがわかります。また、もともと板葺石置屋根でしたが、近年はほとんどが鉄板葺にかわっています。さらに、小屋根や袖壁をもつものもあり、軒高の低さや間口の大小、中二階前面の構えも多様で、道の広狭や曲がりなどによって変化のある町並みをつくっています。
 櫛問屋中村邸を例に間取りをみてみますと、片側に表から裏に抜ける土間を取り、この土間に沿って表から「ミセ」「カッテ」「ナカノマ」「ザシキ」そして庭という配置になっています。街道に面した「ミセ」は櫛挽や曲物などの作業を行う部屋で、蔀を取り払うことによって、街道を行き交う旅人に相対で商う店にもなりました。通常はこのように木工業などに携わり、大名行列などの大通行には旅籠として宿駅の責務を果たしました。
 このような建造物を有する奈良井宿は、まさに中山道のなかでも、宿駅機能と木工業という産業が並存する特色のある町並みといえます。

奈良井の町家の正面意匠と名称の画像
奈良井の町家の正面意匠と名称

櫛問屋中村邸の図面の画像
櫛問屋中村邸の図面