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善光寺街道

ページID:0003953 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

(北国西街道)

太田の清水

太田の清水の写真
太田の清水

奈良井川の河岸段丘の下から湧き出す泉である。宗賀の「邂逅の清水」と同様、今井を治めていた兼平が義仲の挙兵に呼応してこの地で会ったという地名伝説をもっている。では、洗馬と宗賀どちらが本物かという詮索は、もともと史実に基づいたものではないから意味がない。ただ「善光寺道名所図会」には、太田村の「太田の清水」の名で描かれている。ところで、洗馬という地名もこの伝説を連想させるが、木曽義仲が活躍する以前から「洗馬」の地名があったから無関係ということになる。
句碑 木曽どのの
 馬あらふ里よ水清し
 【詠:松美佐雄 書:小里頼永】

郷原宿(地図<外部リンク>

郷原宿の写真
郷原宿

郷原宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿である。当初は、奈良井川畔の人々などを集めて形成され23軒ほどだったが、徳川4代将軍家綱のころには約40軒、江戸後期には73軒と発展してきた。ちょうどこのころ郷原宿は大火にあい、再建後の家々は間口が5~6間と広く、奥行きも街道の両側それぞれに40間、そのまた奥に60間を耕地に割り付け、整然としたものとなった。また宿は、桔梗ケ原台地の一角にあるので水利が悪く深い井戸を掘らなければならなかったようである。
「民芸運動の父」と呼ばれる柳宗悦氏はその随筆の中で郷原宿の美しさを次のように絶賛している。
「…街道は、手入れされた庭木を並木としてその間を通っているのである。こんなに美しい構造の宿場は他には見かけぬ。それも死んだ過去のようではない。宿場全体が見事な一個の作品だといってよい。信州のすぐれた名所として、否、日本の貴重な文化財として、当然公認せられてよい。」

郷福寺(きょうふくじ)(地図<外部リンク>

郷福寺山門の写真
郷福寺山門

桔梗山郷福寺は、真言宗智山派の寺で、本山は高野山金剛峰寺である。郷原宿の北側で街道筋の東側にある。現本堂は、安政5(1858)年の大火以後の再建であるという。明治13(1880)年明治天皇御巡幸のとき、ここが御小休所となった。例年、節分の豆まきは盛大に行われる

塩尻短歌館・歌碑公園(地図<外部リンク>

塩尻短歌館の写真
塩尻短歌館

歌碑公園の写真
歌碑公園

明治以降の広丘村は、「潮音」「アララギ」など近代短歌の潮流をつくった、太田水穂・島木赤彦を中心に、数多くの歌人たちが集い、創作に没頭した地である。塩尻短歌館には、塩尻にゆかりの歌人たちの足跡をたどる資料を展示している。塩尻短歌館は、この地方独特の本棟造の建物を移築、一部改造して平成4年にオープンした。隣接した歌碑公園には、太田水穂・島木赤彦・窪田空穂・若山牧水・若山喜志子・四賀光子・潮みどりの歌碑が松籟の下にひっそりとある。広丘小学校のグランドからは、赤彦がそこで教鞭をとっていた頃と同じように、子供たちの歓声があがり、仰げば巨大な白い屏風のように北アルプスがそびえ立つ。一個人を対象にした展示館ではないことに特色があり、塩尻の広丘でこそできた「短歌のふるさと」の名にふさわしい展示館である。1階の土間ギャラリーでは水穂・空穂の肉声の朗詠が聞ける設備がある。
展示は書簡、軸、歌集などが中心で、毎年短歌大学も開催される。道路に面した上座敷は、水穂の遺品をもとに、彼の部屋を再現し、『太田水穂全集』『潮音』等も展示している。渡り廊下の向こうは、白壁土蔵になっている。1階は吉江孤雁らの遺品が整然と並べられ、2階には、歌人たちの遺墨・書簡が置かれている。ひっそりとした土蔵の中に眠る歌人たちの魂が、歌碑公園に面した小さな窓からさす淡い光に息づいているようだ。
母屋本館の2階は、全集・歌集など書籍類が中心である。階段の踊り場に掲げられたパネルには、この地を舞台に活躍した歌人の系譜が記してある。1番奥の部屋は歌集室になっている。全国から短歌館に寄せられた個人歌集が、作者の50音順に整理されている。
また短歌館の建物は平成21年に国の登録有形文化財になった。
短歌と出会えるまち塩尻がめざすのは、過去の歌人たちの偉業の発掘展示ばかりでない。短歌大学や初心者講座などの創作活動や全国短歌フォーラムの開催を通して、今に生きるわれわれのなかに歌を愛する心を育むことである。

広丘小学校の巨木(地図<外部リンク>

広丘小学校のトチの巨木の写真
広丘小学校のトチの巨木

学校の今昔を象徴する松木立やイチョウの大木、そしてトチの木等は、明治より昭和を経て平成の今日まで100年もの間、学校とともに成長し、広丘小学校の移り変わりや歴史をその幹や枝に刻み続けてきた。そしてどれほどの人々が、広丘小学校時代の喜びや悲しみの思い出を残し、希望に燃えて卒業していったことであろうか…(広丘小学校百年誌より)
松木立の中には歌碑が置かれて、歌碑公園として残っている。校門わきの大イチョウは東京大学のイチョウ並木の実生の苗が、植えられたものという。また、明治36(1903)年に植えられたといわれるトチの木は、子どもたちの格好の遊び場であり、秋になると落ちてくるトチの実を拾うのも楽しみの1つであった。

島木赤彦下宿跡

赤彦が広丘尋常高等小学校校長としてつとめていた頃の下宿跡の写真
赤彦が広丘尋常高等小学校長としてつとめていた頃の建物

島木赤彦が明治42年から2年間広丘尋常高等小学校の校長として赴任し下宿した旧家である。牛屋はその家の屋号で、赤彦はこの家の庭に面した8畳2間つづきの部屋で暮らした。ここには多くの青年が集まり、赤彦から作歌の指導を受けた。また、この家には伊藤左千夫も泊まるなどし、当時の文学サロンの様相を呈した。

えびの子水苑(地図<外部リンク>

えびの子水苑の写真
えびの子水苑

えびの子水苑は、吉田区ふるさとづくり推進会議によって、従来のえびの子池を昭和55年から3年をかけて造りかえたものである。東西約120メートル、南北約100メートルの池で、池の島には、遊歩橋がかけられ、そのわきには、東屋やベンチが設けられている。住宅化が進む吉田にあって、格好の区民の憩いの場となっている。

長者原公園(地図<外部リンク>

長者原公園の写真
長者原公園

この辺りは、長者ケ原とか八幡原とか呼ばれ、一面芝に覆われていたが、現在は公園になっている。ここは戦国時代の居館跡で、土塁に囲まれ、その一部が今、わずかに残っている。この土塁に大典記念に植えられた桜が今は大木になり、花見に恰好の場所となっている。また、この芝原には、オキナグサ(チゴチゴ)がたくさん生えていて、子どもたちがよく採りに行ったという。また、明治のころには競馬も行われたとのことである。ここは、戦国の時代(天文年間)、武田の家臣の城伊庵(じょういあん)という人が、館を構え水堰(野村区の湧水)の水をここまで引いてきたというから、たいへん勢力があったと思われる。

九里巾

九里巾の写真
九里巾

段丘に連なる松林で、かつての桔梗ケ原の松林を彷彿とさせる。
桔梗ケ原の面影が残る自慢の区有林である。戦後開拓される運命にあったが、先人の努力により防風林として残した。住民が「よこべえし」と称し愛着をもって大事にしてきた。九里巾の区有林は、今、私たちにとってかけがえのない財産である。

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