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五千石街道

ページID:0003938 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

塩尻宿から村井町へ

吉江喬松【孤雁】の生家

長畝の吉江喬松(孤雁)生家の写真
長畝の吉江喬松(孤雁)生家

塩尻宿上町から五千石街道に入ってまもなく、長畝には吉江喬松(明治13(1880)年~昭和15(1940)年)の生家が遺されている。塩尻では、「喬松」というより「孤雁」といったほうが通りがよいかもしれない。この号は旧制松本中学(現・松本深志高校)在学中より詩歌などの創作に用い始め、青年時代、太田水穂ら短歌仲間との交流でいっそう馴染みのものとなる。中学を卒えた吉江は早稲田大学高等予科に入学した。早大卒業後研究生を経て、大正4(1915)年教授となる。翌5年、第一次世界大戦の戦時下にあるフランスに留学した。帰国後、早大仏文科創設にあたり主任教授となる。フランス文学・文化を広く紹介し、その功績により大正11(1922)年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。そんな経歴から一般的には、詩人の資質を併せ持つ仏文学者「吉江喬松」として知られている。西絛八十、井伏鱒二、日夏耿之介などは彼の教え子である。吉江はエッセイ「杜の家」に生家について、次のように書いている。
「400年余も経た槻の樹が7本立囲んでいて、周囲は、松、杉などの古樹が、とびとびに取巻いて、塀の壊れかかった芝生の土手を繞らし、その土手の下には、細長い濠がこれに沿うて掘られている。この槻の樹の杜の中に立っているのが、自分の生まれた家である。」

北熊井城跡

北熊井城跡の写真
北熊井城跡

昔、北熊井に城があった。段丘のように西に突き出た高い台地を、深い空壕によって五つの郭に区切ってある県内有数の大きな城である。
このような場所にある城は、山頂や山腹に築かれる山城に対して、平山城と呼ばれる。小笠原氏の城であったが塩尻峠の合戦の前哨戦で武田信玄に攻め落とされた。
昭和50年、区の方々により100本余りの桜が植えられ、今日に至っている。

北熊井諏訪社(地図<外部リンク>

北熊井諏訪社の本殿の写真
北熊井諏訪社の本殿

本殿は県宝である。江戸時代の北熊井村の鎮守で、「諏訪両大明神」「諏訪大明神」と呼ばれた。建御名方命・八坂刀売命・事代主命を祀る。現在の本殿は、天明2(1782)年に完成している。建築形式は一間社流造。屋根は柿葺で千鳥破風・向拝には唐破風を置いている。縁下の持送りや、軒下に施された数々の彫刻は、大隅流柴宮長左衛門の手によるもので、いずれも華麗、ダイナミックである。

常光寺(地図<外部リンク>

木造如意輪観音坐像(市有形文化財)の写真
木造如意輪観音坐像(市有形文化財)

雨宝山常光寺は古い寺歴をもつ。平安時代に東山の峯に蓬堂を建て薬師如来を安置したのが、この寺の草創であるという。そこには礎石や土壇が残っている。その後、熊井城の鬼門に当たる一本杉の地に移されたが、兵火にあって大沢に仮堂を建て、江戸の初期に現在地に移された。明治17(1884)年にも火災を被ったが、本尊の如意輪観音坐像をはじめよく寺宝を守って今日に伝えている。
木造如意輪観音坐像は、現在市の有形文化財になっている。寺伝によると、享保13(1728)年に寺僧雲澄が京都嵯峨の法輪寺から譲り受けたものである。檜材の寄木造で、制作年代は鎌倉中期と推定されている。もう一つの市有形文化財の古写経も保存されている。南北朝時代の康応2年の年号がある45冊の写経がそれである。

小松家【重文】(地図<外部リンク>

小松家の写真
小松家

建物も古く、それらしい証拠も少なくてはっきりしないが、17世紀後半のものと推定されている。何度も増改築されてはいるが、建築当初は11メートルに8メートルぐらいの規模で、当時の家としては大きい方であっただろうといわれている。建築様式は寄棟平入りで、屋根は茅葺き。柱は栗などの雑木で、手斧で仕上げられている。土台はなく、礎石の上に直接すえられている。当初は片側に厩を含む広い土間をもち、部屋は表裏2室のみの間取りで、裏側の部屋は土座で、極めて単純なものであった。現在の南側の畳敷の2室は近世の増築部分である。近世の民家の元になる型を暗示する点でも、重要な存在である。
*国重要文化財

島崎家【重文】(地図<外部リンク>

島崎家の写真
島崎家

島崎家は、北熊井村の名主を勤めたと伝えられている。建てられたのは元禄時代の後期(17世紀後半)といわれる。建築様式は、切妻造、妻入。屋根の勾配がゆるやかで、表の中2階がない古式の本棟造である。屋根は板葺だったが、今は鉄板葺になっている。客座敷は右手前に突き出るように造られているが、本棟造で座敷を拡大するためによく用いられた方式である。全体として質ともに保存がよく、とくに、欄間など座敷まわりの意匠は、民家としては高い水準のものといわれている。現在の建物は昭和62年に解体復元されたものである。
*国重要文化財

小丸山遺跡(地図<外部リンク>

小丸山遺跡集落跡の写真
小丸山遺跡

小丸山遺跡は、片丘の東に連なる山々の麓の台地にある。以前から縄文時代中期の遺物が採集されていたが、昭和48年に農業構造改善事業の実施が決まり、緊急発掘調査が行われた。その結果、東西150メートル、南北80メートルの範囲に縄文中期住居跡26を発見した。東山山麓における縄文時代中期の拠点的大集落跡である。松本平を一望し、北アルプスを見晴らす景勝の地にある。

無量寺(地図<外部リンク>

無量寺の写真
無量寺

松本市に近い南内田の中心的な寺である。「無量寺の半鐘」で知られている。寺宝であるとともに、市の有形文化財に指定されている。享保8(1723)年、この寺の第五世随誉聖順が松本の鋳物師浜伊右衛門に依頼して造らせたもので、当時隠居の身だった四世直西は釣鐘に金が含まれると良い音が出るといわれ、何枚かの小判を鋳材に投入したと伝わる。出来上がった半鐘は「リキセイ(直西)の鐘」と呼ばれ、その音色は、他村にも響き渡り親しまれたという。現在の寺観は平成18年に完成し落慶法要が営まれた。

カタオカザクラ

カタオカザクラの写真
カタオカザクラ

塩尻市の地名がついたただ一つの植物である。久保田秀夫(植物研究家)が片丘小学校に勤務していたとき、近くの山中で発見した。昭和20年のことである。カタオカザクラはヤマザクラの仲間のうち、カスミザクラの品種の一つである。ふつう桜を実生から育てた場合は、開花するのに数年かかるが、このカタオカザクラは2~3年で、樹高数10センチメートルで開花するという特性をもっている。すでに発見された場所にはカタオカザクラは見られないが、地域の皆さんの熱意と努力により、挿し木によって数が増やされた。現在は市役所や片丘小学校をはじめ各所に根付いている。

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