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権兵衛街道

ページID:0003937 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

宮ノ越~姥神峠~権兵衛峠を経て伊那の坂下へ

奈良井(ならい)ダム(地図<外部リンク>

奈良井ダムの写真
奈良井ダム

奈良井ダムは、その下流域の治水や上水道水源など利水用に造られた多目的な中央コア型ロックフィルダムで、堤高が60メートル、総貯水量800万立方メートルである。洪水調整のために350万立方メートルの調整容量をもち、今まで奈良井川下流域が度々悩まされた渇水対策のため、110万立方メートルの用水を貯留する。さらに、松本・塩尻の上水道は、それぞれ大正13年と昭和4年に奈良井川からの取水を開始したが、現在は、一日8万6千400立方メートルの上水道用水を取水可能とするため、180万立方メートルの水を貯留できる。ダムの周辺は深い自然に囲まれ、四季折々の景観が楽しめる場所でもある。

奈良井川の上流

奈良井川の上流の写真
奈良井川の上流

奈良井川の源流は、駒ヶ岳北壁茶臼山(標高2652メートル)付近より北に流れ出る白川であり、鳥居峠下で迂回しほぼ北東に流れ下り、塩尻市内を通り、松本市平瀬下で梓川と合流して犀川となる。犀川は、長野市で千曲川と合流し、新潟県に入ると信濃川となり日本海に流入する。奈良井川は、信濃川水系の最上流部の一河川である。
奈良井ダムより上流は、勾配がきつく、ほとんど護岸のない自然渓流であり、自然度が高く、澄んだ水が流れ、イワナ・ヤマメの姿を見ることができる。

権兵衛(ごんべえ)の生家

権兵衛生家の写真
権兵衛生家

神谷の集落で、神谷峠を経て薮原へ通じる道が権兵衛街道から分岐しているが、今は通れない。この薮原道に入るすぐの道沿いに古畑権兵衛の生家がある。現在、古畑勝久氏の住宅になっているが、氏は権兵衛から数えて7・8代目くらいにあたるという。
権兵衛は、神谷に生まれた牛方行司(親方)で、伊那谷の米を牛の背に乗せて木曽へ運んで労賃を取って生計をたてていた。元禄のころ峠の開鑿を思い立ち、伊那や木曽の人々を説いて、姥神、鍋懸の二つの峠を越え、木曽町宮ノ越から伊那市坂下までの約36キロメートルの道を開いた。元禄9(1696)年に開通し、以来この街道の開鑿(かいさく)を首唱した権兵衛の名をとって権兵衛街道と言うようになった。

神谷(かみや)の集落

神谷集落の写真
神谷集落

姥神峠から木曽側に下ると、神谷の集落に至る。この道は、かつての権兵衛街道であるが、現在は道が荒れており、途中で寸断されていて通ることはできない。権兵衛街道の新道(国道361号)神谷トンネル木曽側入口付近の、ループ橋に入るところが神谷集落への入り口である。現在は、木曽町日義神谷であるが、ここは街道を開いた、古畑権兵衛の生まれた所で、権兵衛街道の交通の盛んな当時、ここには牛方問屋があって伊那と木曽を結ぶ交通の中継地であった。神谷から薮原へ通ずる道が権兵衛街道から分岐している。

姥神(うばがみ)峠

姥神峠への道の写真
姥神峠への道

この峠は木曽町の日義神谷の人々は羽淵峠といい、羽淵の人は神谷峠と呼んでいる。神谷は権兵衛街道を開鑿した古畑権兵衛の生地であり、その子孫も健在である。羽淵から峠への道は比較的よく整備されているが、神谷からの道は寸断されていて通れない。海抜1277メートルの峠からの眺望は素晴らしく、西方に御嶽山の秀麗な姿を遠望できる。かつて権兵衛街道が通じていた頃は、御嶽信仰の人々の通る峠でもあった。峠付近には御嶽遙拝所が設けられ、関連する石碑石仏がたくさんある。現在の姥神トンネルは、この峠の北側を貫いている。

御嶽遙拝所(おんたけようはいじょ)

羽淵の御嶽遙拝所の写真
羽淵の御嶽遙拝所

木曽の人々のなかには、漆木工品や小間物を各地に行商する人が多かった。それにともなって、御嶽信仰の「講」があちこちに結ばれるようになった。地元の「講中」はもちろん関東各地からの講中の御嶽巡礼のために、木曽地域には遙拝所がたくさん設けられている。

羽淵(はぶち)の集落

羽淵集落の写真
羽淵集落

権兵衛街道は、幕末から明治時代を中心として、御嶽信仰の道として伊那谷に住む信者たちに大いに利用されていた。
権兵衛街道周辺の川入地区では御嶽講が盛んで、羽淵集落では住民すべてが講中であった。羽淵の人々は15歳くらいから講に加わり、羽淵の観音堂の上に作ってある滝に朝夕うたれながら、経を唱える水行を行っていた。
また、御嶽山を望むことができる姥神峠には、鳥居を建てた御嶽遙拝所が設けられている。ここには霊神碑を中心として、40基余りの石碑が建てられている。

権兵衛トンネル

権兵衛トンネルの写真
権兵衛トンネル

平成14年11月、掘削に着手してから5年2ヶ月にも及ぶ難工事の末「権兵衛トンネル」の本坑が貫通した。所用時間は、従来の3分の1の30分に短縮され、伊那と木曽が一つの圏域として新たな時代を迎えることになり、産業や経済の発展に大きな期待が寄せられている。木曽の漆器や町並みを楽しみ伊那の農産物や自然も満喫できる。「米の道」から「夢の道」へ大きな可能性を秘めて平成17年度権兵衛トンネルが開通した。

萱ヶ平の集落

萱ヶ平集落の写真
萱ヶ平集落

羽淵から奈良井川に沿って4キロほど登ると、萱ヶ平の集落に至る。萱ヶ平から峠までは2キロの遊歩道が続いており、この道がかつての権兵衛街道である。現在、旧国道361号は、峠まで車で行けるが(冬季は閉鎖)、伊那方面へは通行不可となっている。萱ヶ平はかつての権兵衛街道の荷馬による交易で栄えた集落で、明治になって中央本線の開通とともに人口が減少している。
※現在、萱ヶ平から峠までの遊歩道は整備されておらず、通行できません。

権兵衛峠(地図<外部リンク>

権兵衛米の道の写真
権兵衛米の道

伊那米を木曽へ運搬する場合、塩尻峠や牛首峠を越えるルートでは、奈良井まではよいが、その先に鳥居峠がひかえ、日数や米価など、何かと不便であった。そこで、牛方行司古畑権兵衛が、2年の歳月をかけて伊那へ抜けるこの峠(海抜1523メートル)の道を開いた。
その後、伊那谷から米を木曽谷へ、木曽からは、漆器や曲げ物などの木工品が、伊那へ運ばれるようになり、その功績に因んで権兵衛峠と呼ばれるようになった。
信濃川水系と天竜川水系の分水嶺であるこの峠からの眺望は素晴らしく、眼下に伊那谷を望み、南アルプスの大パノラマも絶景である。また、春の芽吹き、夏の深い緑と渓流、秋の紅葉と四季折々に人々の目を楽しませてくれる。大自然も堪能できる「信濃路自然歩道権兵衛峠ルート」に指定されている。

ジャンボカラマツ

ジャンボカラマツの写真
ジャンボカラマツ

権兵衛峠の南側の山地には、天然林が存在し、この中にカラマツのほか大樹が点々と生育している。生育している場所は、山頂緩斜面の凹地で、風が強くあたらない。
峠から散策路を回り、急坂を喘ぎながら登る。笹が茂り、苔むした木々が林立している。カラマツ・ブナ・ミズナラ・ウラジロモミ・コシアブラ等、ふんわりとした落ち葉の絨毯(じゅうたん)を踏みしめながら歩くのはとても心地よい。カラマツとは思えないような太い、曲がりくねった幹、そして奥には、この森の主、ジャンボカラマツがある。高さ34.5メートル、胸高周囲3.9メートル、樹齢250年のカラマツである。

伊那用水路水枡跡

伊那用水路水枡跡の写真
伊那用水路水枡跡

権兵衛峠の頂上右手300メートルほどの所に、苔むして落ち葉に埋もれているが、伊那用水路(木曽山用水)の水枡や水路の跡が残っている。伊那、特に西箕輪(にしみのわ)の人々にとって用水の有無は死活問題であったという。この水不足を解消するために、明治8年奈良井川上流奥白川からこの峠まで延々12キロを引水し、この水枡で水量をはかった。その後、水路は幾多の改良を経てきたが、昭和34年の台風災害以来水路の維持が困難となり廃止された。現在は昭和43年完成の木曽山隧道(ずいどう)を利用して水を引いている。

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