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宗賀地区の概要

ページID:0003924 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

 

宗賀地区の概要

宗賀南部地区の写真宗賀北部地区の写真
宗賀南部地区宗賀北部地区

「塩尻市市誌」 「塩尻の伝説と民話」 「塩尻市公民館五十年のあゆみ」 一部抜粋

宗賀地区は、木曽谷から流れ出して北流する奈良井川の段丘と扇状地の上に広がり、南は「是より南 木曽路」の碑が建てられている桜沢橋から、北は塩尻市の西に広がる桔梗ヶ原まで、南北に細長く延びた地域です。
平出には、日本三大遺跡の一つである平出遺跡があり、また、地区の中央には、江戸時代の主要五街道のひとつ中山道が通じていて、旧洗馬宿、旧本山宿があり、歴史上の遺跡・遺構が多いところです。
また、地区の北側に広がる桔梗ヶ原台地は、明治以降の開発によって一面の原野が、一大果樹生産地となり、果物の季節になると、ぶどうやワインを求めて多くの観光客が訪れます。

江戸時代に宿場町として栄えた宗賀

徳川幕府は関が原の役後、東海道及び中山道(なかせんどう)の駅制を定めたが、中山道は江戸日本橋の基地から、板橋を経て京都まで六十九駅とされ、そのうち、筑摩郡に設けたものが塩尻・洗馬・本山の三宿と、木曽十一宿で計十四となっている。中山道を、木曽街道六十九次というのは、木曽路にちなむ別称である。(「宗賀村誌」昭和36年8月25日発行 125ページ抜粋)
※ 平成13年1月30日には、木曽街道四百年にちなんだ「本山宿 氷火祭(ひょうかさい)」が本山区で開催され、牛乳パックで作ったアイスキャンドルを各戸の玄関先に設置し、氷と光のページェントが繰り広げられました。

宗賀地区の名所・旧跡紹介

ぶどうとワインの里 桔梗ヶ原

塩尻駅の西方に広がる桔梗ヶ原台地は、乏水性のため水利の便が悪く、明治になるまでは一面が原野であった。
明治2年、桔梗ヶ原が初めて開拓され、その後明治23年にぶどうの栽培が手掛けられたことにより、果樹栽培が始まり、桔梗ヶ原における果樹栽培の基が築かれた。その後、昭和の初年ごろまでに桔梗ヶ原の大部分が開拓され、ぶどう以外にも梨・りんご・桃なども栽培されるようになって、桔梗ヶ原は果物の一大生産地となった。また、桔梗ヶ原には地元のぶどうを原料に1919年(大正8年)からワイン醸造が始められ、国際ワインコンクールで数々の賞を獲得するなど、名醸地として知られ、ぶどうの季節になるとぶどうやワインを求めて観光ぶどう園を訪れる人が多い。

平出遺跡

平出遺跡は桔梗ヶ原の南端に位置し、東西約100メートル、南北約300メートルあり、縄文時代から土師(はじ)時代にかけての大集落である。
遺跡公園には、昭和57年の発掘調査により発見された古墳時代(約1,300年前)の竪穴(たてあな)住居が復元されている。また、平出遺跡が、日本三大遺跡(縄文時代の尖石(とがりいし)遺跡・弥生時代の登呂(とろ)遺跡・古墳時代の平出遺跡)の一つとして注目されたのは、単に古代の住居址が発見されただけでなく、数多く発掘された遺物によって古代の農村の人々の生活のようすが分かることによるためである。

平出博物館・歴史民俗資料舘・瓦塔館(がとうかん)

この博物館は昭和29年11月竣工し、耐震・耐火・防湿が完全で、貴重な収蔵物が永年保存できるように設計されている。中には平出遺跡ほかの調査研究物と遺物が約2万点収蔵されている。

平出の一里塚

昭和電工塩尻工場の西方500メートル、旧中山道を挟んで両側に1対の一里塚が現存している。東塚は周囲50メートル、高さ1.7メートル、頂上の直径15メートル。西塚は周囲45メートル、高さ2メートルであり、両塚ともに松が植えられている。この一里塚は慶長19(1614)年以降、中山道が塩尻回りになってから築かれたものと思われる。
明治初年まで残っていた塚の上の松は枯れ、現在の松はその後に植えられたものであるが、塚の盛り土は原形をとどめており、見事な一里塚である。

床尾神社のアサダ大木群

床尾神社は、スギを主とした針葉樹に囲まれているが、社殿のわきと裏側から東南隅にかけて、アサダ(カバノキ科の陽樹)の珍しい大木がそろっている。最大の木の幹囲は3.24メートル、樹高25メートル以上、つづいて2.44メートルのもの1本、2.42メートル1本、2.32メートル1本のほか、幼苗が数多く育っている。

洗馬(せば)の「あふたの清水」

悲劇の英雄木曽義仲にまつわる伝説は、この地方には非常に多い。その中でも「あふたの清水」にまつわる伝説が宗賀地区と洗馬地区に存在しています。
治承4年、平氏追討の令旨(れいじ)が出され、木曽の地にいた木曽義仲もこれに挙兵し、小県の依田城を目指す途中、義仲の忠臣今井四郎兼平がこの地で合流した。義仲の馬は強行軍にたいそう疲れ果て、一歩も進むことができなくなってしまった。そこで兼平は、この馬を、北の方、村はずれに、うっそうと茂る欅(けやき)の根方にこんこんと湧く清水に引いて行き、脚を洗ってやった。すると馬は忽ち元気をとりもどしたという。
それ以来この清水を「あふたの清水」と当時の言葉で呼び、馬を洗ったが故に洗馬ととなえるようになったと伝えられる。

本山の池生神社(いけおいじんじゃ)

本山区の西を流れる奈良井川のほとりに、「池の権現」と呼ばれ親しまれている池生神社があります。
社叢(しゃそう)は、栃の巨木に囲まれ美しく、壮大な林になっています。(市の天然記念物に指定されています。)
祠(ほこら)の脇には池があり、「この社は目の神様であり、どんな眼病でもこの神様に鯉を献上して祈願し、池の水で目を洗うと必ず癒(い)える。」といった、信仰あるいは民話ふうの古い言い伝えが今日まで残っています。