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広報しおじり令和4年7月号テキスト版 2ページから7ページ

ページID:0023791 更新日:2022年7月1日更新 印刷ページ表示

特集 伝説が蘇る地 木曽義仲と塩尻

平安時代末期から鎌倉時代前期を舞台にしたNHKの大河ドラマでも注目を集めている信濃源氏の武将、木曽義仲。朝日将軍とも呼ばれる義仲は塩尻にも多くの伝説を残しています。今回は、塩尻と義仲の関係性から見えてきた歴史をご紹介します。

源義仲(木曽義仲) 一一五四年から一一八四年

平安時代末期に活躍した源氏の武将。源頼朝・義経の従兄弟に当たる。木曽を本拠地とし「木曽義仲」と名乗った。平家に加勢する中野市の武士・笠原頼直、新潟県の城氏を次々に倒し、長野・群馬・北陸の三県の武士が義仲の下に集まった。平家の大軍を倶利伽羅峠の戦いで破り、戦局を見極めて都に入った。後白河法皇に「朝日将軍」の称号を与えられ、後に「征東大将軍」に任命された。しかし頼朝が送った軍勢により短い生涯を閉じた。(文・義仲館)

木曽義仲 略系図

源為義
子 義朝 義賢 義広 頼賢 為朝 行家
義朝 
子 義平 頼朝 範頼 義経
頼朝
子 大姫
義賢
子 仲家 義仲
仲家
子 仲光
義仲
子 義高
「写真」義仲館
「写真」徳音寺

義仲と塩尻のつながり 塩尻東公民館長 平林 袈裟雄さん「写真」

塩尻東公民館長を務めている平林袈裟雄さん。教師を引退後、興味を持った地域の歴史について研さんを積んでいます。現在は公民館活動の一環で行っている、地域の歴史を現地に赴いて説明した動画「ふるさと歴史講座」が注目を集めています。今回は、義仲の人物像、そして塩尻との関係について聞きました。

人の心に残る義仲の人物像

義仲のエピソードは平家物語が主流となっており、その人物像は乱暴な武将として描かれることもありますが、私はそうとらえていません。さまざまな人から話を聞いたり自分で勉強をしたりする中で、義仲は争うことや人を裏切ることが好きではなく、民を大切にした人だと思うようになりました。人々の心に残って語り継がれているということは、人や生命を大切にしてきた人だからこそだと私は思います。
また、義仲は「悲劇の武将」とも呼ばれています。これは、落ち延びる際に幼き頃から兄弟のように育った重臣の今井兼平を心配した義仲が、兼平の方を振り返った瞬間に敵の矢に討ち取られてしまったという最期が由来です。このような由来や墓が全国に複数あるという点から、義仲の人情の厚さ、また、家臣や民に慕われていたことがうかがえます。義仲は、兄弟思いで平和を望んだ「朝日将軍」と呼ばれるにふさわしい武将だっと思います。

義仲の伝説が残る塩尻

江戸時代で見ると、現在の塩尻町にある塩尻宿には旅人を宿泊させる旅籠が多く、人の行き来が多い場所でした。同じく洗馬宿も交通の要衝として人が集まっており、義仲の時代でも、塩尻は重要な街道として立ち寄ることが多かったのではないかと考えられます。また、昔の長野県は農業中心で、仕事量が減る冬場には本をよく読んだとされています。そこで義仲の話に触れる機会が多く、現在まで語り継がれてきたのだと思います。

大事なものを形で残す

時とともに、記憶や体力と同じように建物や物も風化して失われていきます。しかし、大事なものは後世に残していきたい。そんな思いで公民館主事と、地域の歴史を映像で残すことにしました。現在、塩尻東公民館公式YouTubeにアップした本数は295本。今後も、地域の歴史を引き継いでいきたい気持ちと、地域のことを知ってもらいたい思いで続けていきます。
「写真」義仲の伝説が残る場所も動画にて紹介しています。
▶塩尻東公民館公式YouTube「QRコード」

伝説 其の壱木曽義仲ゆかりの地 塩尻編

本市には、義仲にまつわる伝説が残されている場所が数多くあります。今回は、その中の一部を紹介します。

慈眼山心念堂(芦ノ田)

裏山には、「義仲の鏡岩」と呼ばれる岩がある。この岩は、遠くからも輝いて見えたことから、木曽路を通ってきた義仲の馬が、この輝きに驚き、豪勇の義仲が落馬したと言われている。

長興寺(元町)

義仲の母・小枝御前の墓と供養塔が残る寺。

永福寺観音堂(町区)

永福寺は義仲の子孫である義方が開山。義仲を弔うため建立した寺。本尊の駒形馬頭観音は朝日将軍木曽義仲にちなみ、旭観音と呼ばれている。

床尾神社(床尾)、阿禮神社(町区)

義仲が通過した際に、戦勝を祈願したとの話が伝わっている。

義仲の伝説を守り継ぐ邂逅(あふた)の清水編「写真」

塩尻に数多く残る木曽義仲の伝説の中から、宗賀の洗馬にある「邂逅の清水」について紹介します。

それぞれの立場で、それぞれの思いを

地域の宝を大切に守り継いでいく

あふた清水組合「写真」
義仲の伝説で知られる邂逅の清水は、水道や井戸がない時代に生活用水として重宝されていました。大切にされてきたこの場所を守るため、清掃や管理を常日頃から行っています。また一昨年には湧水を受け止める木製の水船を新調しました。塩尻のふるさとの水20選にも選ばれている邂逅の清水ですが、知らずに通り過ぎてしまう旅人も多くいます。地域を盛り上げる一つのきっかけとして、多くの皆さんに知ってもらいたいです。

自分たちの地域のことを自分たちで受け継ぐ

洗馬歴史同好会「写真」
自分たちの地域である洗馬の歴史が徐々に忘れられていると感じ、今のうちに地域のことをよく知る皆さんから話を聞き受け継ぎたいという思いがきっかけで平成13年に発足し、今年で21年目になりました。地域の歴史を伝えるため、また情報交換の場として会報を作成し地域の皆さんに届けています。また、街道の交流事業など歴史に関係する活動も行っています。今後、洗馬に限らず遠方の街道についても勉強したいと思っています。
宗賀の洗馬、中山道の洗馬宿沿いから少し外れたところに、義仲の伝説が残る「邂逅の清水」という水場があります。この場所は、今に至るまで多くの地元住民が関わってきました。今回は、守り継いできたその思いと伝説について「洗馬歴史同好会」と「あふた清水組合」の皆さんから聞きました。
「位置図」邂逅の清水

人の数だけ伝説がある

邂逅の清水は、義仲が平家を討つべく挙兵した時に義仲の重臣の今井兼平と巡り会い、兼平が義仲の馬の足を洗ったという伝説が残されています。邂逅の清水の「邂逅」は、2人の出会いを意味するといわれており、洗馬の太田にも「太田の清水」として同じいわれがあります。
しかしどちらの団体も、「伝説はあくまで伝説」と語り出します。「中には宿場を盛り上げるために作られたという説もあり、洗馬という名前の由来も、馬の足を洗ったこの伝説が由来という説もあれば、義仲の時代の前から洗馬という地名は存在していたともいわれています」と洗馬歴史同好会は続けます。「語り継がれてきた歴史には諸説あり、人の数だけ真実や伝説があります。分からないからこそ、議論が絶えないんですよね」。正解は分かりませんが、残された数多くの伝説が洗馬という地域を盛り上げていることは紛れもない事実です。

地域住民の誇り「邂逅の清水」の今後

「木曽義仲という人物は、洗馬に住む人々にとっては英雄です」。そう語るのは、邂逅の清水を管理するあふた清水組合の皆さん。しかし近年、義仲を知らない人が増えているそうです。「邂逅の清水を知らずに通り過ぎてしまう旅人を見ることも多いですね。地域の誇りであるこの場所を、後世に引き継がれるべき地域の宝として皆さんに知ってもらい、大切にしていきたいです」と邂逅の清水の未来に思いを巡らせます。

偉大な先輩たちの思いを継ぐ

洗馬は、同好会の先輩たちによって地域の歴史に関する看板が多数設置されており、多方面から評価されています。「洗馬の歴史をよく知ってもらうため、洗馬区に新しい看板を3基設置予定です」と意気込む同好会の皆さん。宗賀小学校でも社会教育の機会があり、案内人として6年生にふるさと学習を行っているそうです。「何気なく通ったその場所に歴史がある。自分の地域の歴史を多くの皆さんに知ってもらいたいです」。

「絵画」歌川広重画「木曽街道六十九次」洗馬の図。洗馬歴史同好会では、この絵の元は、邂逅の清水から見える景色ではないかと考えています。

校長室のトビラを開けると(表紙の写真:宗賀小学校4年生と今井兼平洗馬の像)

宗賀小学校の校長室には、旧洗馬学校(明治11年建築)の屋根に飾られていた「今井兼平洗馬の像」が所蔵されています(左写真)。この像は、義仲の重臣である今井兼平が義仲の馬の足を洗っている姿で、松本市旧開智学校の建築者である立石清重が形にしたものです。太平洋戦争終戦の混乱時に万が一のことを心配した当時の校長が、とある民家に預けたこともありました。現在この像は、児童が地域の歴史を学ぶための重要な役割を担っています。

interview
宗賀小学校4年 片瀬 咲羽(さわ)さん(床尾)「写真」

校長室を見学したときに、先生から像や地域の歴史について教えてもらいました。140年以上も前の像が今も形や色がそのまま残されていることがすごいと思いました。

★h6★宗賀小学校教諭 原 光司さん「写真」

宗賀小学校ではふるさと学習を大切にしています。地域の歴史や、地域の人が昔から大切に残してきたものに触れることで、子どもたちの礎となってほしいですね。

義仲の伝説を守り継ぐ 小野神社編

木曽義仲の伝説の中から、戦勝祈願を行いその後の戦いで勝利を収めるなど、多くの伝説が残る小野神社について紹介します。
憑(たのめ)史談会会長 古厩 敬一さん(上田)「写真」

残してきたものは永遠に続く。今後果てることはない

北小野地区で歴史研究の愛好会「憑史談会」の会長を務める古厩さん。明治43年に始まったその会は、百年以上経った今も歴史探求が続いています。今回は、小野神社と義仲の関係性から、地域の歴史について聞きました。

伝説と歴史は別のもの ただ、伝説がまちを盛り上げた

小野神社と義仲のつながりは、義仲が以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨を得て挙兵したことから始まるとされています。横田河原の戦いでは、小野神社の神の使いである「神使(おこう)」が義仲の軍に加わり、成果を上げたという説もあります。義仲は諏訪や木曽へ向かう途中、崇敬する小野神社に戦勝祈願をしたであろうといわれています。その後の倶利伽羅峠の戦いでは、平家の大軍を破りました。その時の作戦である、数百頭の牛の角に炬火(たいまつ)をつけて一挙に突入させ、平家を崖まで追いやり全滅させた逸話は、大変面白いですよね。
その後、義仲は戦勝を祝い小野神社に対して領地を与えたり、同じ社叢(しゃそう)に隣接する矢彦神社では木曽から木を切り出し社殿を造営したりしたと伝わっています。小野神社御柱大祭の御柱木についても、矢彦神社の社殿造営の材木と一緒に木曽から切り出し、両神社へ納めたといわれています。また、義仲に勝利をもたらしたとされている「牛炬火」に点火して遷宮祭を行い、戦勝を祝ったとのことです。
この中にはあくまで伝説で、歴史として残すには確証が持てないものもありますが、地域ではその伝説を元に、この地に名を残した義仲を祭るため、現在に至るまで御柱大祭の遷座祭での牛炬火を焚く伝統が続いています。このように義仲の伝説と、北小野地区で代々受け継がれてきた御柱大祭はつながっており、地域住民によって現在まで伝統が残されてきました。これはこの先果てることはなく、永遠に続いていくと思います。

地域を知って、受け継ぐ役目

私が小さい頃は、皆生きることで精いっぱい。地元を離れふるさとのことを聞かれた時に、地域のことを教えてもらう機会があまりなかったことから、答えることができず不甲斐ない思いをしたという経験がありました。そこからは仕事の傍ら自分の家のルーツや、地域の歴史など、現地まで足を運びながら調べてきました。
現在は憑史談会として、自分が知ったことは余すことなく周りに伝えています。今後も、北小野公民館と連携しながらふるさと歴史講座で話をしたり、地域の学校でも課外学習を交えたりしながら地域の歴史を受け継いでいきたいです。
「写真」小野神社御柱大祭の遷座祭で、義仲の伝説がある牛炬火が焚かれている様子。

横田河原の戦い

治承・寿永の乱における戦いの一つ。千曲川の横田河原で木曽義仲と越後の平家軍との間で行われた。

倶利伽羅峠の戦い

上記に同じく、治承・寿永の乱における戦いの一つ。平安時代末期に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で木曽義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。

「写真」「勇魁三十六合戦 二十八」無款

戦いの名も、主な武将の名も書き込まれてはいませんが、角に炬火をくくり付けた牛の突進から逃げる武者が描かれており、倶利伽羅峠の戦いの様子であることが分かります。このシリーズの浮世絵は他に35枚あります。
画像提供:株式会社プラルト

木曽義仲ゆかりの地 塩尻編 其の弐「木曽義仲の馬の足跡」(上小曽部)

小曽部川渓流の岸には突き出た大きな岩があり、そこには馬が滑って踏みとどまった義仲の駿馬の足跡といわれている穴がある。朝日将軍は岩に足跡がつくほどの駿馬に乗っていたとされ、その伝説は残されてきました。その跡に溜まっている水は眼病に効くとの言い伝えもあります。「写真」

編集後記

語り継がれた伝説をたどっていくと、地域の歴史に心を寄せる人々との出会いが待っていました。地域に残る伝説は、関わった人々の心によってつくり上げられてきたのです。それは歴史と同様に地域を盛り上げる、かけがえのない宝。だから皆、その伝説を大切に、時には議論を重ねながら、自分の地域のことを後世に伝えるべく任された使命を遂行します。場所を守り継ぐ人。形にして残す人。次世代へ語り継ぐ人。それぞれの形で地域の歴史を未来へとはぐくんでいきます。今回の特集が、地域や自分の家のルーツに思いをはせるきっかけになることを願っています。
※木曽義仲にまつわる歴史や伝説については諸説あります。