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四賀 光子

ページID:0003842 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

塩尻市ゆかりの歌人を紹介します。

四賀 光子
(しが みつこ・Shiga Mitsuko       明治18年~昭和51年)

四賀光子の顔写真
四賀 光子

歌人。
明治18(1885)年4月、父の任地である長野市に生まれる。本名はみつ。夫は歌人の太田水穂。「四賀 光子」の名は、祖父の郷里である長野県諏訪郡四賀村(現長野県諏訪市)にあやかったもの。

明治36年に長野県松本女子師範学校を卒業後、教職に就く。太田水穂を知って作歌活動に入り、水穂がおこした新派和歌の同好会「この花会」の会員となり、本格的に短歌を学ぶ。

明治38年に水穂と婚約をかわす。同年、東京女子高等師範学校に入学。明治42年に同校を卒業後、太田水穂と結婚したが、単身で福島県立会津高等女学校(現福島県立葵高等学校)に赴任。明治43年に帰京し、水穂と同居。大正元(1912)年に東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)に赴任し、昭和6年(1931)年まで教鞭をとる。退職後、夫の水穂が創刊した歌誌「潮音」の選歌・編集に専念する。

昭和20年から翌年11月まで水穂の生家(塩尻市広丘原新田。塩尻短歌館近く)に疎開。敗戦当時の農村の状況を的確に歌った詠を残す。昭和30年、水穂が79歳で亡くなると、養嗣子(ようしし。家督を相続することになっている養子)の太田青丘(おおた せいきゅう)と共に「潮音」を守り、水穂の遺志を継ぐ。昭和32年からは宮中歌会始の選者を長く務める。

昭和51(1976)年3月、90歳で永眠。