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太田 青丘

ページID:0003841 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

塩尻市ゆかりの歌人を紹介します。

太田 青丘
(おおた せいきゅう・Ohta Seikyu       明治42年~平成8年)

太田青丘の顔写真
太田 青丘


昭和・平成期の歌人、漢文学者。
長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市広丘原新田)に生まれる。本名は太田 兵三郎(おおた ひょうざぶろう)。

大正3(1914)年に、太田 水穂(歌人。塩尻市広丘原新田出身)の兄である父・太田 嘉曾次を亡くした後、大正5年、8歳で上京し、水穂・四賀光子(歌人)夫妻の養嗣子(ようしし。家督相続人となる養子)となる。

東京帝国大学(現東京大学)文学部中国文学科を卒業後、同大学院で中国文学を専攻する。後に、日本歌学と中国詩学の比較研究により文学博士の学位を受ける。この間、横浜医療専門学校教授などを経て、法政大学教授となる。後に、同名誉教授。

昭和3(1928)年に短歌結社「潮音」に入社し、水穂の指導を受ける。水穂没後、母・光子を助け「潮音」を編集・発行し、水穂文学の研究に力を注ぐ。昭和40(1965)年に光子の跡を継いで「潮音」の代表者となる。光子没後は「潮音」の主宰となり、継承・発展に尽くす。なお、青丘が87歳で没した後は、妻(後妻)の太田絢子、そして、娘の木村雅子が「潮音」を継承する。

 

日本歌学と中国詩学の研究解明を基底に、広く世界の時事を見つめ、独自の「歴史観的社会詠」を確立する。宮中歌会始詠進歌選者、信濃毎日新聞歌壇選者を務める。また、塩尻においても、塩尻短歌館の建設や「短歌の里」の環境づくりの内容充実に貢献する。

 

  『隣より又隣よりつぎつぎに牛啼きいでて村明けてゆく』(塩尻短歌館近くに建つ歌碑)

  『青くあれ青くてあれと完成をこばみて未来に常生きし君』(母・光子を詠ったもの)

  『一つ泊まったら帰る(けえる)とぞいひて六十年ともにすごしし年月顯ちくる』(「四賀光子逝く」の詩書に付された一首。故郷を離れ、養父母となる水穂・光子の家に上京した、初めての出会いの日の詠。青丘 68歳の時に詠む)