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太田 水穂

ページID:0003840 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

塩尻市ゆかりの歌人を紹介します。

太田 水穂
(おおた みずほ・Ohta Mizuho        明治9年~昭和30年)

太田水穂の顔写真
太田 水穂


歌人。
広丘村(現塩尻市広丘原新田。短歌館近く)生まれ。本名は太田貞一。

明治27年に長野県師範学校に入学、同級生に島木赤彦(歌人。短歌館隣りにある広丘小学校で校長を務めた)がいる。赤彦とは文学仲間。古典研究や島崎藤村(しまざき とうそん。詩人、小説家)に傾倒する。卒業後、郷里で教職に就く傍ら、吉江孤雁(よしえ こがん。歌人)や窪田空穂(くぼた うつぼ。歌人)らと語らって明治33年2月に新派和歌の同好会「この花会」を結成し、信州文壇に大きな刺激を投じる。

明治41年に上京し、歯科医学校教授となると同時に文学活動を本格化し、大正4年に歌誌「潮音(ちょうおん)」を創刊。歌人、研究者の道を歩む。アララギ派の万葉・写実主義に対立して、新古今や芭蕉俳諧を継承・発展した「日本象徴主義」を掲げて近代短歌の革新に尽力する。昭和23年に歌人として初めて日本芸術院会員に推される。

昭和30(1955)年 元日、79歳で永眠。

 

没後、短歌結社「潮音」は妻の四賀光子(しが みつこ。歌人)と養子の太田青丘(おおた せいきゅう。歌人)により継承される。代表的秀歌『命ひとつ露にまみれて野をぞゆくはてなきものを追ふごとくにも』の歌碑を広丘に遺す。「短歌のふるさと 塩尻」の中心人物の一人。