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若山 喜志子

ページID:0003838 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

塩尻市ゆかりの歌人を紹介します。

若山 喜志子
(わかやま きしこ・Wakayama Kishiko。  明治21年~昭和43年)

若山喜志子の顔写真
若山 喜志子

歌人。
明治21(1888)年、広丘村吉田(現塩尻市広丘吉田)の太田家に生まれる。本名は若山喜志(わかやま きし)。妹は歌人の潮 みどり(うしお みどり)。

 

明治35年3月に高等科4年を卒業。松本高等女学校への進学を熱望したが、母が病弱のため断念し家事に専念する。その傍ら、藤村詩集やその他の文学書を耽溺する。また、姉たちの影響を受け、新詩社風の歌を作り、太田水穂が選者をしていた「信毎歌壇」に投稿する。

 

明治39年4月に松本補習学校に入学。明治41年に卒業し、同校の裁縫教師として勤務する。翌年、広丘小学校に転任。校長は島木赤彦、同僚に中原静子がいる。この頃、喜志子は女性による文芸投稿誌『女子文壇』に新体詩を投稿し、横瀬夜雨に賞賛されるなど文才を認められ、女子文壇の花形作家として注目される。

 

明治44年6月に上京して太田水穂宅に仮住まいしている時に、水穂宅を訪れた若山牧水と出会う。明治45年4月、帰郷中の喜志子は、信州を訪れていた牧水と逢うため、妹の桐(きり。潮みどり)を伴って村井駅に出迎える。そして、桔梗ケ原の松林の中を歩いて塩尻駅に向かう途中、牧水から求婚される。同年5月下旬には上京し、牧水と新所帯をもつ。

 

結婚後は貧困をはじめとして苦労が多かったが、牧水の芸術を生かすため、持ち前の芯の強さで牧水を支え続ける。昭和3年9月に牧水が44歳で死去した後、結社「創作」を主宰し続ける。

 

昭和43(1968)年8月、80歳で永眠。