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若山 牧水

ページID:0003837 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

塩尻市ゆかりの歌人を紹介します。

若山 牧水
(わかやま ぼくすい・Wakayama Bokusui        明治18年~昭和3年)

若山牧水の顔写真
若山 牧水

歌人。
明治18(1885)年、宮崎県東臼杵郡坪谷村(ひがしうすきぐん つぼたにむら。現宮崎県日向市)に生まれる。本名は若山 繁(わかやま しげる)。

延岡中学校の頃から短歌、俳句、新体詩などを発表する。明治37年に早稲田大学に入学後、尾上柴舟(おのえ さいしゅう。歌人、国文学者)の門下になる。卒業後、詩歌雑誌「創作」の編集者として、また、第3歌集「別離」などで注目され、文芸誌「明星」のロマン主義を否定した自然主義短歌で前田夕暮(まえだ ゆうぐれ。歌人)と共に一時代を築く。

新聞記者として短期間務めるが、もっぱら歌人として生活する。西行や芭蕉と並称されるほど旅を愛し、また、酒を深く愛したので、「歌と旅と酒」の寂寥歌人(せきりょうかじん)と言われた。ロマン主義や自然主義の影響を受けた初期から、歌風は平明精澄、声調は流麗で広く愛唱され、「国民歌人」とも称される。

  『幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく』

  『白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり』

  『若竹の伸びゆくごとくこども達よ真直に伸ばせ身をたましいひを』

 

明治43年創刊の歌誌「創作」を生涯主宰し、全国多数の新聞・雑誌歌壇の選者として広く後進を導いた。歌のほか優れた紀行文や随筆も多い。晩年に暮らした静岡県沼津市と、出身地の宮崎県宮崎市に記念館がある。牧水の歌碑は全国各地に建立されている。

太田水穂(歌人。長野県塩尻市広丘原新田出身)を頼って上京した太田喜志子(歌人。長野県塩尻市広丘吉田出身)と水穂宅で出会い結ばれたことで、塩尻と縁が深い。

昭和3(1928)年9月、43歳で永眠。以後、「創作」は夫人の若山喜志子が受け継いだ。