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島木 赤彦

ページID:0003836 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

塩尻市ゆかりの歌人を紹介します。

島木 赤彦
(しまき あかひこ・Shimaki Akahiko      明治9年~大正15年)

島木赤彦の顔写真
島木 赤彦


歌人。
長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)生まれ。本名は久保田 俊彦。

明治27年に長野県師範学校に入学。同級生の太田 水穂とは文学仲間で、短歌や新体詩を「文庫」等に投稿する。師範学校を卒業後、長野県内で教職に就き、明治42年に広丘高等尋常小学校(現塩尻市立広丘小学校)で校長を2年間勤める。その間、住まいとしていたのが「牛屋(うしや)」と呼ばれる下宿である。(「牛屋」は令和4年に塩尻短歌館横の歌碑公園に移築され、長く保存されることとなる。正式名称は、国登録有形文化財 島木赤彦寓居(ぐうきょ)。通称「牛屋」)

広丘高等尋常小学校在職中に広丘歌会(広丘アララギ短歌会)を開き、同校の教師であった中原静子らを育成する。明治36年には歌誌「比牟呂(ひむろ)」を創刊。(「比牟呂」は後に「アララギ」と合併)

 

その後も教職に就きながら、大正2年に第1歌集「馬鈴薯の花(ばれいしょのはな)」を刊行する。早くから伊藤 佐千夫に傾倒し、「馬酔木(あしび)」に参加。佐千夫の死後、大正3年に教職を辞して上京し、「アララギ」の編集発行人となって、斎藤 茂吉、中村 憲吉らと写実主義を追究しながら同誌の中心的指導者として発展に尽くす。そして、アララギ派を大正短歌の中核に高め、昭和歌壇に引き継ぐ礎を築く。また、教育者としても力を発揮し続け、大正6年から9年まで長野県の教員向け研究雑誌「信濃教育(しなのきょういく)」の編集を引き受け、毎月、革新的な教育論を発表した。

 

大正9年に刊行した第3歌集「氷魚(ひお)」において、写生に立脚する赤彦調を確立し、大正13年刊行の「太虚集(たいきょしゅう)」に至っては、寂寥森厳の歌風を大成した。寂寥感(せきりょうかん)の漂う写実的な作風を追究した歌人である。

赤彦は深く万葉の伝統に学び、写生の旗印を鮮明にして、客観的態度をもって対象の深奥に迫るが、やがて作歌は『鍛錬道(たんれんどう)』であり、短歌の究極は『寂寥所に澄み入る』ところにあるとする東洋風の詩境に進んだ。

 

大正15年3月、50歳で永眠。同年7月に第5歌集「柿蔭集(しいんしゅう)」が刊行された。下諏訪町に赤彦記念館がある。