ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 交流文化部 > 吉田公民館 > 吉田地区の概観

本文

吉田地区の概観

ページID:0003930 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

吉田公民館 「吉田地区の概観と吉田区の成立」

広丘から吉田・松本方面を望んだ写真
広丘から吉田・松本方面を望む

吉田区境略図

吉田地区の概観

「塩尻市公民館五十年のあゆみ(平成13年3月10日発行)337ページ」より抜粋

吉田は塩尻市の北端に位置し、その北側は松本市芳川村井に接している平坦な地域である。
地区の東側には田川が南から北に流れ、その地域には水田が広がっている。
この地域は千年以上前には田川の流域を指して「良田の郷」と呼ばれていたが、元弘年間ころの古文書の中に「吉田」の地名が出てくるので、「良田」から「吉田」に変わったものと推察されている。(塩尻市誌別冊P418)
その後数百年を経た明治22年に、吉田・野村・高出・郷原・堅石・原新田の6カ村が合併して広丘村となり、さらに昭和34年に塩尻市に併合され、塩尻市広丘吉田区となった。
地区のほぼ中央に国道19号線とJR篠ノ井線が並行して走り、その西側の奈良井川東岸の段丘上一帯は水利に恵まれず、吉田原と呼ばれ、かつては桑畑や原野が広がっていたという。
長者原に居を構えて6代目に当たるという男性は、「昭和の初めの子どものころには、6戸しかなかった」と話している。
昭和20年ころまでは国道の東側には松林が点在し、村井駅へ通ずる道は、大きな松林に覆われて昼間でも薄暗く、一人では怖くて歩けなかったほどであったが、秋にはマツタケも採れたという。
大正から昭和にかけての養蚕が盛んであった時代には、村井にあった繭の集荷所に向かう繭を積んだ荷車や牛車が通るだけの、のどかな農村であった。

吉田地区の成立

昭和39年、松本から諏訪にかけての地域が新産業都市に指定されてから、国道19号沿いに多くの企業や事業所が進出するようになり、吉田地区はそれに加えて、市の市街化計画による宅地造成が始まりました。
昭和40年に20区画、44年に81区画、46年に183区画と、区画が年々増加しています。人口は、52年には5千人を超え、60年には6千人を超え、急増しました。
このため、区の運営にもさまざまな支障が出てきたので、区を分ける検討を重ね、平成6年4月1日、広丘から分離して吉田地区となり、吉田地区内が5つの区に分区されました。
このときの吉田地区の人口は、2,689世帯・7,499人であり、その後も区画整理や宅地造成などが進んだことにより、平成26年4月1日現在の吉田地区の人口は、3,943世帯・9,422人となっています。

参考:塩尻市公民館五十年のあゆみ