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仁科街道(千国街道)

ページID:0003950 更新日:2023年5月31日更新 印刷ページ表示

洗馬~岩垂を経て松本市笹賀へ

琵琶橋(地図<外部リンク>

琵琶橋の写真
琵琶橋

明治初年「長野県町村誌」洗馬村の項に「往古久米ノ岩橋と云う。木橋、幅2間、長11間、両詰三刎はねを以て岩上へ架し、最高くして非常満水にも往古より流落せず」と記してあるとおり、川幅は狭く、水面との間が高く、両岸は岩がしっかりしていて橋が架けやすく流路も安定していて、架橋場所としては最適の場所だった。川の両岸から三段に梁木を突き出し、その上に橋桁をのせた刎橋であった。古くから洗馬郷の重要な交通路であり、江戸時代には、高遠とを結ぶ重要な橋でもあった。
琵琶橋は「琵琶の名手蝉丸伝説」がある。

東漸寺(地図<外部リンク>

東漸寺の写真
東漸寺

東漸寺は浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である。木曽氏一族の長瀬氏により建てられ、木曽義仲の死後、兵火にあって寺跡のみとなっていたものを、長瀬氏ゆかりの愚底上人が復興したと言われている。東漸寺の山門に通じる道脇に立つシダレザクラは幹の周囲が4.89メートルもあって、市内最大の美しい老木である。主幹はやや衰えを見せてはいるが、境内のシダレザクラと共に見事な花を咲かせる。また寺には「信斎館」があり陶工奥田信斎が窯を開けるたびにもっとも気に入ったものをご本尊に供えたといわれる作品が収められている。なお、窯跡は見つかっていないが、当時の入道焼や洗馬焼と区別して信斎焼といわれる。ここから遠望する鉢伏山も風情がある。

長興寺(地図<外部リンク>

長興寺の写真
長興寺

長興寺は、戦国時代(1520年代)に開基され、徳川幕府から朱印地十五石の寄進を受けるほどの名刹である。庭園は、長興寺山の山麓の一部もその中に取り入れた江戸中期の様式の典型的な池泉回遊式庭園である。サツキの咲くころ、ホトトギス・カッコウの声の響くころ、とりわけ山麓の松にまじる紅葉を背景にしてドウダンツツジが真っ赤に燃えた美しさには格別な風情がある。
※庭園は市名勝指定

洗馬焼和兵衛窯跡(地図<外部リンク>

発掘された洗馬焼和兵衛窯跡の写真
発掘された洗馬焼和兵衛窯跡

塩尻では、幕末から明治初年にかけて陶器を焼いた窯には、本洗馬の洗馬焼・信斎焼・南熊井の入道焼・平林焼・北熊井の中島焼等々があった。洗馬焼は、江戸時代末期の天保11年、和兵衛窯の操業によって始まった。長興寺山南東の麓を利用してつくられた窯だが、現在は窯跡一基が復元されている。平成4年に農道の工事中に発見された。登り窯2基、工房と思われる一軒の建物跡、土坑6基が発掘され、第一号窯跡は全長8.8メートル、最大幅4メートルで、焚き口・胴木間・捨間・1~5の間までの各房が設けられていたことがわかった。第二号窯跡は全長12.6メートル、最大幅4.4メートルで、焚き口・胴木間・1の間から7の間までの各房がしつらえられ、窯尻に煙出しを設えた大規模なものであった。遺構とともに出土したものには、皿・碗・花瓶など日用雑器と数々の窯道具類がある。
*市史跡

本洗馬歴史の里資料館(地図<外部リンク>

本洗馬歴史の里資料館の写真
本洗馬歴史の里資料館

江戸時代の洗馬郷は高遠藩の飛び地として自由な気風のもとに独自の洗馬文化を育んだ。他国から陶工、文人が訪れ、その交流が洗馬の文化に磨きをかけた。資料館はこれら先人の遺した貴重な資料を収集整理し、研究の成果とともに展示している。

釜井庵(地図<外部リンク>

釜井庵の写真
釜井庵

洗馬の地頭三村氏の城は妙義山にあった。戦国時代、城主三村氏が、鉢伏山の方角から上る月がよく見えるこの地に館を建てた。武田信玄が信州攻略のおり、三村氏は松本の小笠原軍に従って塩尻峠で戦うが、洗馬の土地を守るため小笠原軍を裏切り信玄側につく。ところが三村一族郎党は勝利した信玄に皆殺しにされてしまった。武田氏滅亡後、松本領主小笠原氏が土地を提供して、村人に命じて善寿院を建てさせ高野山徳善院の配札所として寄進した。その後、釜井庵をめぐり数多くの著名人がかかわることになる。その中の一人菅江真澄は、天明3年5月、30歳の時この地を訪れ、釜井庵に1年余も滞在し、長興寺の洞月上人等と歌を通して親しく交際した。真澄は三河の国渥美郡(現・豊橋市)の生まれで、和歌・医学・本草学を身につけ、生涯の多くを旅に暮らす。信濃に関わる著書に「委寧野中路」「すわの海」「来目路の橋」「いほの春秋」「わがこころ」がある。

鳴雷山遠望

鳴雷山遠望の写真
鳴雷山遠望

鳴雷山は、床尾区を扇形に囲む山並みの中の一つである。古代の人々は、人里近い山の峰に天の神を祀ったが、この地の人々は昔「建御雷命がこの地に巣くっていた悪者共を退治した…」という伝説や、この辺りに激しい雷雨がある直前には、風雲を巻き起こし雷名をとどろかせるところから「鳴雷山」と名付けた。鳴雷山は雨乞いの場としても知られ、中信・安曇地区からも人々がやってきたという。
菅江真澄は、釜井庵からはるか床尾の山並みを望み、次のように詠っている。
釜井庵とその周辺は、県史跡に指定されている。
むら雲の隔てにくらき遠方は
 又もや雨になる神のみね
夏夜の床尾の嶺はいとはやも
 明けてかすかに有明の月
この歌碑は床尾の大堤公園にある。

洗馬小学校の赤松(地図<外部リンク>

洗馬小学校の赤松の写真
洗馬小学校の赤松

洗馬小学校の玄関に向かうと、よく手入れされた見事な松が目に入る。この松は明治35年洗馬小学校新築を記念して植えられたもので、「門かぶりの松」と呼ばれている。その当時100年を優に越えていたものを、芦ノ田区の青年が移植したものという。「雪の季節の松の枝振りと松の青さは特に素晴らしい」といわれているが、「雪の重みで枝が折れては大変」と学校関係者は雪が降るたびに気をもんだともいわれ、この松に寄せる思いが伝わってくる。
子も孫も何人もがこの松の下を通って入学し、それぞれに卒業して行った。一年中変わらない松の緑の豊かさが、心の糧となった。

熊谷岱蔵生家

熊谷岱蔵正家の写真
熊谷岱蔵生家

熊谷岱蔵は、明治13年洗馬元町に生まれた。旧制松本中学(現・松本深志高校)、一高を経て東京帝国大学医学部を卒業。明治44年からドイツに3年間留学、帰国後東北帝国大学の教授となる。昭和15年、同大総長に就任。結核研究の大家で、国民病ともいわれた結核による死亡率を半減させた功績は大である。そのほかインフルエンザの血清による免疫療法、血糖降下剤インシュリンの分離抽出に成功したが、カナダのトロント大学の発表にわずかに遅れ、ノーベル賞を逸した。昭和27年、県下初の文化勲章を受章。昭和37年歿。
熊谷家の祖先には、菅江真澄と交流の深かった可児永通、祐碩、珪碩、謙斎など洗馬の文化を支えた人々が見られる。

真正寺(地図<外部リンク>

真正寺の写真
真正寺

往古、この寺院は現在地より800メートル北東の住井戸地籍にあった。たびかさなる奈良井川の氾濫と兵火の難により現在地に移り、元亀2年高野山より憲秀法印を招き中興開山とした真言宗の寺である。
本尊大日如来坐像は、像高69.8センチ、寄木造りで全身漆箔、玉眼入り。鎌倉後期中央仏師による作とみられ、台座光背は江戸中期のものである。平成3年、県宝指定。

岩垂の高札場(地図<外部リンク>

岩垂の高札場の写真
岩垂の高札場

高札場は法度掟書などを記し、また、さらし首・重罪人の罪状を記した板札をかかげた場所のことで、江戸時代に全国的なものになった。これは、一般庶民に法令を周知徹底させるのが目的で、五街道の宿場や村々の庄屋(名主)宅の前など民衆の目につきやすい所に設けられた。岩垂の高札場は旧公民館の前にあり、ここは以前郷蔵(江戸時代年貢米、凶作に備える穀類などの共同倉庫)があったといわれる。岩垂村は、天領(幕府領)と私領(高遠領)に分けられていたが、高札場は両方の名主宅からほぼ等距離の位置に建てられていた。塩尻市内の高札場としては、昔の状態を保っている唯一のもので、市の文化財に指定されている。

岩垂高原野菜

岩垂高原野菜の写真
岩垂高原野菜

塩尻一帯は平均標高が高く、冬寒く、夏は気温が上がり、特に夏から秋にかけて昼夜の気温較差が大きく、葉菜類の栽培に最適な気候である。
レタス、白菜、キャベツは、出荷量・販売金額とも洗馬地区が他地区を圧倒している。
洗馬地区岩垂原は、乏水性台地のため、水田化は進まなかった。葉菜類の栽培が始まったのは、昭和初期頃で、戦後レタスなどの栽培が盛んになった。食習慣の洋風化に伴って消費も増大し、生産は年々増えていった。

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