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「南内田の里」ガイドマップ

ページID:0003912 更新日:2021年6月28日更新 印刷ページ表示

「南内田の里」ガイドマップの説明について記載しています。

自然と人々が織りなす南内田の風土

カタオカザクラ

カタオカザクラのイラスト

昭和20年東山山麓・庫裏平(くりだいら)付近のカラマツ林のなかで発見されたカスミザクラの品種で、高さ数十センチの若木でも開花する特性を持ちます。花は、淡いピンク色、苞は緑色で大きく葉状化しています。片丘で発見された貴重な種でもあるため、片丘ざくら保存会の人たちが大切に育てています。

菅江真澄の感じた南内田の里

北アルプスの山稜を望む鉢伏・高ボッチ山の麓に、木立に包まれた家々が、辻から辻への小径にたたずむ南内田の里です。

内田村のさし入に、食斎堂とて建るに、あみだほとけのおましませり。ここのしばしやすらひ、御前に在てひぢ枕に眠り、松風さとふくに夢もいざなはれて、「はかりなき齢をとへば御仏のみまへにこたふ松風の声」虫の声したるとき、いざなひし可臨の句あり。
「石仏のうしろに鳴やきりぎりす」荒河を渡り金峯山にのぼる。
(「委寧能中路(いなのなかみち)」抜粋 菅江真澄全集より)
(注:食斎堂=無量寺 金峯山=牛伏寺)

積み重なる歳月を経て、人々の暮らしと豊かな自然がひとつの流れの中で培われ、今よみがえります。

雨乞い(「塩尻伝説と民話」より)

「塩尻市の東、高ボッチ・鉢伏山を主峰とする筑摩山地の西側の地は、自然の流水だけでは田用水に不足して、しばしば旱ばつになやまされた。そのため、百姓の苦労はたいへんなものであった。番水(ばんすい)に、夜水かけにと幾多の辛労を重ねた末、いよいよとなって、雨乞いが行われた。
まず、南内田字北釜の「山の神様」の回りに、七つ池というくぼんだ湿地がある。これを村じゅうこぞって出てさらい、直ちに大宮八幡につどい、昔鉢伏山頂にあったともいう五輪の塔をだして田組せんげまでかつぎあげて、雨乞いの祈念をこめて洗う。その夜は、各戸各人めいめい松明をとぼして、前鉢伏の宮に千本松明を奉納して雨乞いの祈願をした。
それでもまだ霊験がなければ、南北内田の全戸の人々が、鉢伏山頂に祀る鉢伏山大権現に雨乞いの祭りを行い、帰路、牛伏寺に立ち寄り、梵鐘(ぼんしょう)をはずして、仁王門前南の大地に侵してくる。それでも雨が降らなければ・・・(省略)・・・。」

鉢伏山

鉢伏山(標高1928.5m)は、丸い鉢をかぶせたような山で、頂上一帯や尾根筋には草原が広がっていますが、山腹の標高1,600mあたりまでは落葉広葉樹、以高は亜高山帯針葉樹林帯です。山頂付近は松本市と岡谷市の境です。頂上一帯の草地には、レンゲツツジ、ノアザミ、ニッコウキスゲ、スズラン、コケモモ、ヤマハハコ、ミヤマワラビなど多くの植物が見られます。展望がすばらしく、北アルプスの山々、諏訪湖から富士山、八ヶ岳、中央アルプス、南アルプスなど360度に広がる大パノラマは感激ひとしおです。山頂付近に牧水・喜志子の歌碑が建立されています。
この鉢伏山は、山麓の片丘の人々の生活に深く関わってきた信仰の山でした。山頂付近に祀られている鉢伏大権現は不思議な神で、山の雪が解けて春ともなれば農耕の神、水分(みくまり)の神であり、雪が来て冬ともなれば山に帰って山の神になるといわれてきました。現在も、南北内田区の役員が毎年6月に鉢伏大権現に参拝し農作物の豊作を祈念しています。

南内田のササラ踊り

ササラ踊りは、ササラ(長さ七八寸の竹片を30枚位重ねて、麻紐などでつづり合わせたもの。)で拍子を取りながら、内田小唄にあわせて踊る盆踊りで、長い歳月一時も途絶えることなく踊り継がれ今に至っています。内田小唄は、江戸中期の、中馬(ちゅうま)の盛んだった頃、内田の人々が馬を引いて江戸に行ったときなどに歌を覚えてきたものが、変化しつつ今日に伝えられてきたものと考えられています。

南内田の御柱(オンベ)祭り

南内田の各集落で、毎年1月の初中旬に、山から迎えた松の木に、オンベ(刻んだ五色の紙を5尺くらいの篠竹に挟んだもの)などのつくりものを飾り、各辻(「南原上手」「鍛冶屋」「久保在家」「中村」「山ノ神」「赤津」
「立小路」「原村」)に建てます。地域の人々の素朴な祭り行事の一つです。

大宮八幡宮

創立年代不詳。現在の本殿は享保3年(1718)建替

  • 鉢伏大権現の棟札
    大永3年(1523)と銘のある銅板(15.2cm×18.2cm)、鉢伏山頂の鉢伏大権現の棟札といわれる。
  • 石造宝塔
    永享5年(1433)波多腰清勝が雨乞いのため鉢伏大権現に法華経を納めたもの。
  • 若キ者連名覚帳など古文書
    文政5年(1822)頃からの県下に例を見ない若者の活動記録。
  • 武田信玄旗立イチイ(市天然記念物)
    周囲3.32mの大木で、大正元年の台風で樹冠が折れた。天文22年(1553)武田信玄と小笠原長時合戦のとき、武田方の陣所となり旗を立てたという。
  • 片葉のよし(葭)伝説
    昔神様がこの地に来られたとき、片刃の剣で片側の葉を切り落としたため、片側にだけ葉のあるよしが鳥居の南、御手洗池付近に生えていたが今は絶滅したと伝えられる。

無量寺

寛延3年(1750)現在地に移転、本尊は阿弥陀如来の立像です。

  • 無量寺の半鐘(直西の鐘)
    無量寺の第5世随誉聖順のとき(1724)、自己の所持金と信徒の浄財により鋳造されたもので、当時第4世直西は、釣鐘に金が含まれると良い音がでるとし、何枚かの小判を鋳金のなかに投入したといわれています。
  • 六地蔵
    嘉永5年(1852)目の病はここに参り、石の器にたまった水をつけると癒るといわれた。
  • 庚申塔(金剛青面像)
    元禄13年(1700)土中に埋もれたものを掘り出して祀る。「駒索の庚申」といい勝負事に強くなると参る人が多かったという。
  • 光明真二百万遍
    寛政12年(1800)念仏信仰を伝える石碑で、疫病流行の際は大勢が大数珠を手操り、念仏を唱え何日もかけて百万遍としたという。
  • 菅江真澄歌碑
    江戸時代後期の紀行家で民俗学の先駆者です。天明3年(1783)にこの地を訪れたときの歌碑(前文参照)

いなのなかみちのイラスト